出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
第13代日本銀行総裁,枢密顧問官。群馬県に生まれ,同志社普通学校卒業後,国民新聞社,民友社に勤務。1900年徳富蘇峰の推薦で松方正義蔵相の秘書官となり,翌年日本銀行に入行。検査局調査役,秘書役,国債局長,営業局長等を経て,18年理事,28年副総裁,35年総裁となる。理事就任後総裁辞任に至るまで日銀金融政策遂行の中心人物であったが,とくに1930,31年の金解禁および再禁止の際は〈金本位制と管理通貨制というはっきり対立した二つの時期を円滑にリンクする〉金融政策の運営にあたり,32年以降は高橋是清財政の公債政策,すなわち日銀引受けによる国債発行・消化政策に協力した。この間,国際的にも活躍し,パリ講和会議,ワシントン会議,ロンドン国際経済会議等に随員または全権として出席した。38年総裁辞任後枢密顧問官に任命されたが,その議事ノート《枢密院重要議事覚書》(1953)は政治史の貴重な資料となっている。また,回顧録《回顧七十年》(1941)は,金融政策史の基礎文献とされている。
執筆者:伊藤 正直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大正・昭和期の金融財政家。明治4年11月20日群馬県高崎に生まれる。同志社卒業後、民友社勤務、松方正義(まつかたまさよし)秘書を経て1901年(明治34)日本銀行に調査役として入行、1935年(昭和10)総裁となり、私学出身として異例の地位に上った。その間、日露戦争中に外債募集のため高橋是清(これきよ)に随行、第一次世界大戦後の国際会議に出席し、金融恐慌(1927)や金解禁・再禁止問題に対処し、外国為替(かわせ)管理法の制定に尽力し、有能な金融官僚として難局の処理にあたった。二・二六事件(1936)後、日銀総裁を辞し、貴族院議員、ついで枢密顧問官となった。同志社時代のキリスト教を離れたが、意識と物質とが共通なる本源から発するとみる一元論にたち、自由と必然を確率の概念において統一しようとする独自の哲学的世界観をもち、通貨問題では国際的潮流を見通した経済理論をもつ優れた思想家でもあった。昭和20年10月21日病没。
主著に『通貨調節論』『金本位制離脱後の通貨政策』『人物と思想』『回顧七十年』、遺著に『枢密院重要議事覚書』などがある。
[長 幸男]
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