深井村(読み)ふかいむら

日本歴史地名大系 「深井村」の解説

深井村
ふかいむら

[現在地名]堺市深井〈きた町・なか町・ひがし町・清水しみず町・水池みずがいけ町・さわ町〉・堀上緑ほりあげみどり町一―二丁

家原寺えばらじ村の東、堀上ほりあげ村の北に広がる大村。大鳥郡に属する。古代には大鳥郡常陵とこはか郷、中世には深井郷の地。深井の地名は行基の閼伽井「深井清水」があったからという。近世、当村は南深井・北深井・中深井・深井安の四ヵ小村から構成されていたが、行政的には一村として扱われた。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図には北・中・南の三村名がみえる。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では深井村一村でみえ高一千五六一石余。元文年中改和泉国四郡郷村高帳では一千六七九石余で、以後変化はない。


深井村
ふかいむら

[現在地名]東部町大字かのう

北国脇往還沿いの大屋村(現上田市)の北にあって、千曲川によってできた河成段丘上一帯の村。東は中曾根なかぞね村、西は吉田よしだ(現上田市)、北は吉田村栗林くりばやし村、南は千曲川畔の大屋村と本海野もとうんの(現東部町)に境を接する。

嘉暦四年(一三二九)三月の諏訪大社上社文書(守矢真幸氏蔵)に「海野庄深井・岩下両郷地頭等、深井海野次郎左衛門入道知行分」とあるのを初見とする。応永七年(一四〇〇)「大塔物語」に海野幸義の族深井氏の名がみえ、諏訪御符礼之古書(諏訪大社上社文書)の宝徳二年(一四五〇)に「海野本郷、御符之礼五貫六百文、代官深井依満」と深井氏は海野氏の代官であり、また諏訪大社上社の御射山・花会・五月会等に深井氏は頭役の奉仕をしている。


深井村
ふかいむら

[現在地名]君津市大井戸おおいど

大月おおつき村の北西小糸こいと川右岸に位置する。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領等注進状(金沢文庫文書)に「深井」とみえ、盛義の領分のうち他人の所領が混在する地であった。盛義は元応元年(一三一九)罪科により所領を没収されており、元徳元年(一三二九)四月金沢称名寺領として下地の打渡しがあったが、これを不満とする在地の糟屋道暁・秋元空暁後家尼性善らの濫妨が続いた(一二月二日「平宗継請文案」同文書など)。正慶元年(一三三二)同寺雑掌光信の「深谷」も盛義の旧領であるという主張が認められた(一二月二日「関東下知状案」同文書)


深井村
ふかいむら

[現在地名]大野市深井

飯降いいふり山の東麓にあり、飯降村の南に位置する。東を赤根あかね川が北流する。永享一二年(一四四〇)四月日付春日社領越前国大野郡小山庄田数諸済等帳(天理図書館蔵)に「深江郷田数御年貢等事」とあり、「深江」は「深井」と思われる。永正元年(一五〇四)一二月二五日の宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)には「深江西ノカワ 分米五石八斗」とあり、永禄一二年(一五六九)六月一六日の同寺領目録(同文書)には「深江村」とみえる。また享禄三年(一五三〇)二月二七日の崇聖寺寺領目録(洞雲寺文書)に灯明料分として「弐百文在坪深井寄進法春大姉」とあり、戦国期に当村に宝慶ほうきよう寺領や洞雲とううん寺領のあったことが知られる。


深井村
ふかいむら

[現在地名]雄物川町深井

雄物川東岸、平鹿郡から由利郡へ通ずる街道が雄物川を渡る所に位置する。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「古来南形、今宿、沼館三ケ村地形開候て村立候由」とあって、三ヵ村の開発により村が開かれた。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高五三一石余、うち蔵分一一二石余、給分四一九石余。天保郷帳、「秋田風土記」ともに四一五石余とある。

雄物川岸船場があって、「秋田風土記」に「川岸舟宿有、浅舞の近村貢物を此処より船に積下す」と記し、近郷の年貢米を雄物川の舟運を利用して秋田城下へ輸送した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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