戊戌変法(読み)ボジュツヘンポウ(その他表記)Wù xū biàn fǎ

デジタル大辞泉 「戊戌変法」の意味・読み・例文・類語

ぼじゅつ‐へんぽう〔‐ヘンパフ〕【戊戌変法】

変法自強

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改訂新版 世界大百科事典 「戊戌変法」の意味・わかりやすい解説

戊戌変法 (ぼじゅつへんぽう)
Wù xū biàn fǎ

中国,清朝末期の近代的政治改革運動。干支戊戌の年,すなわち1898年(光緒24)に起こった。戊戌維新とも呼ばれ,また100日あまりで失敗に終わったことから〈百日維新〉とも呼ばれる。変法とは,伝統的な政治制度を全面的に改革することであり,具体的には,日本の明治維新を模範にして君主専制から立憲君主制に改めることである。この運動の理論的指導者は康有為である。1888年,会試受験のため北京に来た康有為は,清仏戦争敗北以来の欧米列強による蚕食の状況,国内の窮乏化とあいつぐ反乱官僚腐敗と無能を指摘し,〈成法を改め,下情を通じ,左右(官僚)の登用を慎重にする〉の3項目の改善を求める上書を提出した。しかし,彼が進士でなかったため上書の資格に欠けたこと,そして内容が刺激的であったことのために光緒帝のもとには届かず,かえって政界に恨みを残しただけだった。広州に帰った彼は,新たに公羊学(くようがく)を中心とする今文学にもとづき,西欧近代思想ことに進化論と仏教とで補強した改革思想,すなわち〈大同〉の政治哲学を構築した(《大同書》)。

 95年,時あたかも日清戦争に敗れて屈辱的な講和条約を強いられた状況を背景にして,再び会試受験のために北京入りした康有為は,講和拒否・遷都・変法の3項目からなる上書を,在京の挙人1200名あまりの連署をそえて提出した(公車上書)。この上書もまた要路の官僚に阻まれて光緒帝には届かなかったが,彼自身は進士に合格した。しかし彼は任官を辞退して変法運動の高揚と組織化に専念する。すなわち,一方で変法の具体策を次々に上書すると同時に,他方梁啓超(りようけいちよう),譚嗣同(たんしどう)らの支持者とともに,厳禁されていた政治結社に代わるものとして学会を各地に設立し,また新聞雑誌を創刊して〈瓜分(国土分割)〉の危機,民権の振興,変法の緊急性を訴えた。まず,同年8月,北京に強学会を設立し《中外紀聞》を創刊した。ついで上海にも強学会を設立し,《強学報》を創刊した。97年冬,ドイツ軍が膠州(こうしゆう)湾を占領した事件は,中国瓜分の危機感を知識人の間に深めた。康有為はただちに上書して,ロシア,日本を模範にして国是を定めること(君主立憲制の採用),大いに各官庁の群才を集めて行政改革をはからせること,各省の長官にゆだねて各自に変法させることの3項目からなる意見をのべた。この当時,西太后の手から政治の実権をとりもどした光緒帝の側近の間には,政治改革を望む空気が,翁同龢(おうどうわ)を中心に,しだいに濃くなりつつあり,この上書は皇帝に届かなかったものの,康有為は光緒帝の命により総理衙門に召され,李鴻章,翁同龢らを通じて変法の具体策を開陳できた。98年4月,彼は〈国家を保ち,種(民族)を保ち,教(孔子教)を保つ〉ことを宗旨とする保国会を官僚たちに呼びかけて組織し,変法運動は最高潮に達した。

 しかしたまたま保守派の中心人物恭親王奕訢(えききん)が病死したため,変法運動は新しい局面をむかえた。光緒帝は,6月11日,〈明らかに国是を定める〉という詔勅を下し,これ以後,9月21日の政変に至るまでの103日間,康有為ら変法派と皇帝側近とが協力し,光緒帝を通じて,種々の改革案が〈上諭〉の形式でやつぎばやに発せられた。その中で康有為が最も重視したのは,制度改革であり,そのために制度局を設立し,あわせて国会を開き憲法を定めることを求めた。しかし,新政を行うには,新しい人材の育成が必要である。京師大学堂をはじめ新しい教育機関の設立,外国留学生の派遣など一連の教育改革がはかられた。このほか,軍制・経済・行政のすべてにわたる改革案が提議された。しかしそれらのすべてを実行に移すには困難があった。というのも康有為の政治論に対する非難に加えて,新政に対する西太后を中心とする保守派の強い反対を背景にして,中央の上層官僚はもとより,地方の大物官僚さえもその大部分が反対するか,傍観的態度をとったため,改革案はほご同然にされていたからである。

 西太后はただちにまきかえしをはかった。まず光緒帝の信頼の最も厚かった翁同龢を罷免し,ついで二品以上の大臣に新職を授ける権限を光緒帝から奪った。同時に西太后は側近の栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して,北洋の三軍を統率させた。もちろん,光緒帝側も,保守派の官僚を罷免するなどの反撃を試みるとともに,楊鋭,劉光第,林旭,譚嗣同を新政に参画させるなど,変法派の実権奪取をはかった。しかし,このころすでにすすめられていた新政転覆の計画を感知した光緒帝は,〈今,朕が位はほとんど保せざらんとす。汝ら適宜に速かに密かにはかり,法を設けて相救うべし〉という密詔を康有為および楊鋭らに発した。一方,光緒帝は直隷按察使袁世凱(えんせいがい)を召見して,その率いる新建軍を利用して栄禄を殺させようとはかり,譚嗣同も袁世凱に光緒帝保護のために決起を促そうとしたが,いずれも失敗に終わった。光緒帝は瀛台(えいだい)に幽閉され,西太后の訓政が復活して,戊戌変法は瓦解した。康有為,梁啓超は,あいついで日本に亡命したが,譚嗣同,楊鋭,林旭,劉光第および変法に賛成し,かつ訓政復活に抗議した御史楊深秀,康有為の弟康広仁の6名は,大逆不道の罪で捕らえられ,北京の菜市口で処刑された。史上,〈戊戌六君子〉と称される。
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百科事典マイペディア 「戊戌変法」の意味・わかりやすい解説

戊戌変法【ぼじゅつへんぽう】

百日維新とも。中国,清末の1898年(光緒24年,戊戌の年)に光緒帝は変法自強(変法自強運動)を説く康有為らを登用して,清朝を立憲君主国家にしようとする新政を施行したが,西太后を中心とする守旧派は先手をとってクーデタを起こし,帝は幽閉され,康有為,梁啓超らは日本へ亡命した(戊戌政変)。西太后を摂政として守旧派は政権を把握,新政は100日たらずで失敗した。
→関連項目袁世凱譚嗣同

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「戊戌変法」の解説

戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)

変法(へんぽう)運動

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世界大百科事典(旧版)内の戊戌変法の言及

【清】より


[改良と革命]
 先進列強の繁栄と中国の貧窮の相関関係をささえる中国の半植民地化という社会基盤そのものから,中国のブルジョア的変革を指向する動きが生まれてくる。そのようなブルジョア・イデオローグが政治舞台に登場してはなばなしい活動を開始した最初のものが,康有為を指導者とする戊戌(ぼじゆつ)変法運動であった。彼ら変法派は,洋務派が中体西用論をとなえて生産技術だけを移入しようとしたのに対し,西洋の社会体制そのものを模倣すべきだとして立憲君主体制への移行を計画した。…

※「戊戌変法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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