浮世絵師。父は池田政兵衛茂晴といい,武門の出であったらしく,英泉も幼時に狩野白珪斎に学んだといい,画風には基礎の確かさがうかがえる。やがて浮世絵師菊川英山の門人となる。一筆庵あるいは無名翁とも称し,小説なども手がけ,浮世絵の歴史考証の書《無名翁随筆》(別名《続浮世絵類考》,1833)を著した。画作には遊女,芸妓に取材した美人画が多い。その日常生活は無頼を極め,一時は娼家をみずから経営し,曲亭馬琴の日記によれば,3年余の肺病生活ののち急死したという。この破滅型の性格から生みだされる英泉の美人は,鈴木春信や鳥居清長の健康的な美人とは異なり,一種の張りがあるが暗い印象をともなう。これは化政期以降の幕末の世相を反映したものであり,1810年(文化7)の随筆《飛鳥川》に,昔は若い女に戯言(ざれごと)をいうと大変恥ずかしい風情だったが,近ごろはこちらが顔の赤くなるような返事が返ってくる,とあるように,女性自体が変化したためともいえよう。風景画には歌川広重との合作《木曾街道六十九次》がある。
執筆者:狩野 博幸
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江戸後期の浮世絵師。池田氏で、俗称を善次郎、名は茂義(しげよし)、のちに義信(よしのぶ)と改名した。初め狩野(かのう)白珪斎に師事し、また菊川英山の門人となったが、実際は独力で浮世絵を学んだ。画号には渓斎のほかに涇斎(けいさい)、国春楼などを用い、春画には淫斎(いんさい)白水、戯作(げさく)には一筆庵可候(いっぴつあんかこう)、随筆には无名翁(むめいおう)などを号した。作画期は文化(ぶんか)年間(1804~1818)中期から没年に及び、作域はきわめて広い。代表作とされる作品は少なくないが、退廃的な雰囲気をもった美人画には他の追随を許さないものがある。とくに著名な作品としては、歌川広重(ひろしげ)とともに描いた『木曽(きそ)海道六拾九次』のシリーズや、蘭字(らんじ)の枠をもつ洋風風景画などがあり、美人画は大首絵(おおくびえ)風な作品に佳作が多い。他の分野にも多くを描いたが、浮世絵師としては珍しく幾種かの著述を残しており、なかでも『続浮世絵類考』は浮世絵の基本的な文献として、現在もなお評価が高い。
[永田生慈]
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(大久保純一)
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[後期]
中期において完成の域に達した美人画や役者絵は,相変わらず浮世絵界の中心的な関心事であり続けたが,様式的には生新な展開をみせることはなく,爛熟退廃の度を深めるばかりであった。美人画では,豊国,国貞(3代豊国)らの歌川派や渓斎英泉らが活躍し,時代が下るにつれて短軀で猪首・猫背の,濃艶にすぎる美人画像が標準となっていった。役者絵においても歌川派が全盛で,大仰に誇張された似顔表現がもてはやされ,錦絵ばかりでなく絵本にも役者絵仕立てが流行した。…
…この間草津から京都までは東海道と重なるため,草津までで69駅となる。この街道を主題とした浮世絵版画《木曾街道六十九次》は1835年(天保6)から渓斎英泉によって始められ,38年前後に歌川広重が参加,42年ころ完成された。このシリーズは保永堂と錦樹堂の合板によるもので,英泉が24図,広重が46図を手がけ計70枚の大作であったが不評に終わった。…
※「渓斎英泉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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