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渓斎英泉 けいさいえいせん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

渓斎英泉
けいさいえいせん

[生]寛政2(1790)/寛政3(1791).江戸
[没]嘉永1(1848).8.26. 江戸
江戸時代末期の浮世絵師。本名池田義信あるいは茂義。字は混声。通称,善次郎。号は渓斎,旡名翁 (むめいおう) ,北花亭など。若くして狩野白珪斎に学び,のち菊川英山の門に入る。文政5 (1822) 年頃から美人の大首絵 (おおくびえ) に専念。歌麿の理想的様式美の追求とは異質の,女性の内面の抽出に独自のスタイルを完成した。そのほか洋風手法を用いた風景画,人情本挿絵春本なども作成。また女郎屋を営み,好色的な筆名を用いるなど奇行に富む。天保の改革後は藍摺を用い,晩年は戯作者に転向。著書『旡名翁随筆』。主要作品『浮世風俗美女競 (くらべ) 』『今様美人拾二景』,安藤広重との合作『木曾海道六拾九次』,『江戸日本橋ヨリ富士ヲ見ル図』。

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百科事典マイペディアの解説

渓斎英泉【けいさいえいせん】

江戸後期の浮世絵師。江戸の人。姓は池田,俗称善次郎。渓斎,無名翁と号し,また,一筆庵可候と号して戯作を書いた。狩野白珪斎に師事した後,菊川英山に学び,退廃味の濃厚な幕末美人画のスタイルを作った。
→関連項目花暦八笑人

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

渓斎英泉 けいさい-えいせん

1791-1848 江戸時代後期の浮世絵師。
寛政3年生まれ。菊川英山の門人。美人画を得意とし,歌川広重(ひろしげ)の協力で「木曾街道六拾九次」をえがいた。天保(てんぽう)の改革以後は戯作(げさく)や随筆に専念。著作に「続浮世絵類考」など。嘉永(かえい)元年7月22日死去。58歳。江戸出身。本姓は池田。名は義信。通称は善次郎。別号に国春楼。戯作名は一筆庵可候。作品はほかに「当世好物八契」「蘭字枠江戸名所図」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

渓斎英泉

没年:嘉永1.7.22(1848.8.20)
生年:寛政3(1791)
江戸末期の浮世絵師。江戸生まれ。士分松本政兵衛の子だが,池田姓を名乗る。名は義信,一時茂義とも称す。画号は渓斎,一筆庵など,戯作者名には一筆庵主人,一筆庵可候など。幼少時は狩野白珪斎に絵を学ぶ。一時仕官したが,讒言にあって浪人。菊川英山の門人格となり,文化(1804~18)末ごろから作画を開始。以後,読本,合巻,人情本などの挿絵に筆を執り,錦絵では「浮世風俗美女競」などの美人画を描く。北斎風の漢画臭の強い名所絵や,洋風風景画も制作。天保6(1835)年には「木曾街道」に着手したが,中途で放棄し,初代歌川広重に継承される。文政(1818~30)中期から天保期(1830~44)にかけて一派の領袖として活躍したが,天保の改革以後は文筆業に次第に専念し,戯作や『无名翁随筆』などの随筆を残す。浮世絵師としての英泉は脂粉の香り漂う艶冶な美人画に,江戸末期の退廃的美意識を反映させた。<参考文献>おおさわまこと『渓斎英泉』

(大久保純一)

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世界大百科事典 第2版の解説

けいさいえいせん【渓斎英泉】

1790‐1848(寛政2‐嘉永1)
浮世絵師。父は池田政兵衛茂晴といい,武門の出であったらしく,英泉も幼時に狩野白珪斎に学んだといい,画風には基礎の確かさがうかがえる。やがて浮世絵師菊川英山の門人となる。一筆庵あるいは無名翁とも称し,小説なども手がけ,浮世絵の歴史考証の書《無名翁随筆》(別名《続浮世絵類考》,1833)を著した。画作には遊女,芸妓に取材した美人画が多い。その日常生活は無頼を極め,一時は娼家みずから経営し,曲亭馬琴の日記によれば,3年余の肺病生活ののち急死したという。

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大辞林 第三版の解説

けいさいえいせん【渓斎英泉】

1790~1848) 江戸後期の浮世絵師。江戸の人。姓は池田、名は義信。別号、無名翁など。妖艶・退廃的な美人画を得意とし、多数の浮世絵、草双紙の挿絵を描いた。池田英泉。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

渓斎英泉
けいさいえいせん
(1790―1848)

江戸後期の浮世絵師。池田氏で、俗称を善次郎、名は茂義(しげよし)、のちに義信(よしのぶ)と改名した。初め狩野(かのう)白珪斎に師事し、また菊川英山の門人となったが、実際は独力で浮世絵を学んだ。画号には渓斎のほかに(けいさい)、国春楼などを用い、春画には淫斎(いんさい)白水、戯作(げさく)には一筆庵可候(いっぴつあんかこう)、随筆には无名翁(むめいおう)などを号した。作画期は文化(ぶんか)年間(1804~1818)中期から没年に及び、作域はきわめて広い。代表作とされる作品は少なくないが、退廃的な雰囲気をもった美人画には他の追随を許さないものがある。とくに著名な作品としては、歌川広重(ひろしげ)とともに描いた『木曽(きそ)海道六拾九次』のシリーズや、蘭字(らんじ)の枠をもつ洋風風景画などがあり、美人画は大首絵(おおくびえ)風な作品に佳作が多い。他の分野にも多くを描いたが、浮世絵師としては珍しく幾種かの著述を残しており、なかでも『続浮世絵類考』は浮世絵の基本的な文献として、現在もなお評価が高い。[永田生慈]

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世界大百科事典内の渓斎英泉の言及

【浮世絵】より


[後期]
 中期において完成の域に達した美人画や役者絵は,相変わらず浮世絵界の中心的な関心事であり続けたが,様式的には生新な展開をみせることはなく,爛熟退廃の度を深めるばかりであった。美人画では,豊国,国貞(3代豊国)らの歌川派や渓斎英泉らが活躍し,時代が下るにつれて短軀で猪首・猫背の,濃艶にすぎる美人画像が標準となっていった。役者絵においても歌川派が全盛で,大仰に誇張された似顔表現がもてはやされ,錦絵ばかりでなく絵本にも役者絵仕立てが流行した。…

【木曾街道六十九次】より

…この間草津から京都までは東海道と重なるため,草津までで69駅となる。この街道を主題とした浮世絵版画《木曾街道六十九次》は1835年(天保6)から渓斎英泉によって始められ,38年前後に歌川広重が参加,42年ころ完成された。このシリーズは保永堂と錦樹堂の合板によるもので,英泉が24図,広重が46図を手がけ計70枚の大作であったが不評に終わった。…

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