渡瀬村(読み)わたらせむら

日本歴史地名大系 「渡瀬村」の解説

渡瀬村
わたらせむら

[現在地名]神川町渡瀬わたるせ

現神川町の南端に位置し、東は金鑽かなさな村、宮内みやうち(現児玉町)など、西は神流かんな川を境に上野国緑野みどの浄法寺じようほうじ村・鬼石おにし(現群馬県鬼石町)、南は下阿久原しもあぐはら(現神泉村)、北は新宿しんしゆく村。北東端にある御嶽みたけ(三四三・四メートル)には戦国期まで御嶽城があった。永禄八年(一五六五)四月一日の長井政実書状(黒沢文書)によると、黒沢玄番允は渡瀬の高山分三貫二〇〇文と児玉郷(現児玉町)二貫文の地を宛行われている。文禄三年(一五九四)四月代官頭伊奈忠次による検地が実施され、その際の渡瀬之郷御坪入帳写(桜沢家文書)によると反別は貫文表示をとり、田畑八五貫八六七文・屋敷二貫三二二文で、このなかには新宿村・萩平はぎだいら村分が含まれていた。慶長三年(一五九八)再び検地が実施され、かなりの田畑の改出しがあったようであるが、現存の検地帳(同文書)は欠本があるため全耕地・屋敷の確定はできない。ただし渡瀬村何角覚書(同文書)は同年の検地による名寄形式の三四名(初期本百姓のみと思われる)分の持高を九一貫六五四文としており、これが新宿・萩平両村を除いた当村の基本村高となった。


渡瀬村
わたせむら

[現在地名]三原市幸崎さいざき町渡瀬

火尻神ひじりかみ山で北西小泉こいずみ村に接し、西は峠で忠海ただのうみ(現竹原市)に接する。火尻神山南麓の末広すえひろ谷に発する畑岡はたおか川が酉方とりかた(鳥形)谷・別所べつしよ谷・持田もちだ谷などから流れる小流を合わせて東流し、流域に耕地が展開するが水がかりは悪く、水不足に悩まされた。中世には沼田ぬたうら郷のうちで、沼田小早川氏の庶子家浦氏の根拠地の一つ。浦熙氏(永正一〇年没)が当村西方の白滝しらたき山中から移し、慶長(一五九六―一六一五)の頃久保田隆興が再興したと伝える行蔵こうぞう(現臨済宗仏通寺派行蔵寺)は、陣屋敷とよばれる土居形式の寺地をもち、東に土井下どいしたの地名を残す。


渡瀬村
わたらせむら

[現在地名]七ヶ宿町 渡瀬・はら追見おつけん

七ヶ宿街道せき宿の南東に立地する宿場。北西の原集落との間を小梁こやな川、原とさらに北西の追見集落との間を大梁おおやな川が南流し、白石しろいし川に注ぐ。南東は小原おばら(現白石市)内の同街道下戸沢しもとざわ宿。「雪のふる道」にわたる瀬、弘化二年(一八四五)の山田音羽子の「お国替絵巻」(「七ヶ宿町史」所収)では渡る瀬とみえる。

天正一九年(一五九一)より蒲生氏郷領となり、文禄三年(一五九四)の同氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「渡瀬 四百八十二石二斗九升 源左」とある。


渡瀬村
わたのせむら

[現在地名]佐伯町渡之瀬わたのせ

とうげ村の南に位置し、玖島くじま(峠川)の流域に開けた山間の小村。永禄一三年(一五七〇)二月一六日付の剣持家久譲状(「防長風土注進案」所収)に「渡世」とあり、天正二年(一五七四)閏一一月一九日付の剣持家久給知付立(同書所収)に「神領綿瀬」とみえる。これらにより中世当地は厳島神社領で、戦国末期に五石(五貫目)の地が毛利氏家臣剣持氏の給知であったことがわかる。


渡瀬村
わたらせむら

[現在地名]鮫川村渡瀬

富田とみだ村の南、渡瀬川の上流域に位置し、阿武隈高地朝日あさひ山・弓張堂ゆみはりどう山・山王さんのう山などの山麓に立地。地内の鮫池は、鮫が遡上してすみついたと伝え、鮫川村名の起りとされる。江戸時代の領主の変遷は赤坂西野あかさかにしの村と同じ。正保郷帳では高六〇五石余、うち田三九〇石余・畑二一五石余。元禄郷帳では高五八八石余、枝郷の江竜田えりゆうだ村の高八二石余、中山なかやま村の高五六石余、福原ふくわら村の高六三石余、田尻たじり村の高七七石余、関口せきぐち村の高九一石余、青野村(青生野村)の高六五石余、大戸中おおどじゆう村の高五七石余。


渡瀬村
わたせむら

[現在地名]浜松市渡瀬町

ほう川の左岸に位置し、東は小松方こまつがた村、北は植松うえまつ村、南は芳川を隔て西伝寺せいでんじ村。中世はかば御厨西方に属し、史料には綿瀬村・綿瀬名などとみえる。松平忠頼領郷村帳では高一三九石余、田五町八反余・畑一〇町二反余、うち川成一〇石。同所新田五石。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳では「わたぜ村」として高一四四石余。領主の変遷は西にし村と同じ。正保郷帳の高一七〇石余から元禄郷帳の高一四二石余への減少は、次広つぎひろ村と別久べつきゆう村を分村したことによると考えられる。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図では本田一六〇石余・新田一〇石余、百姓林二四歩。


渡瀬村
わたぜむら

[現在地名]千代田町大字渡瀬字渡瀬・古賀こが田中たなか

詫田たくた村の南東にあたり、城原じようばる川東岸に位置する。正保絵図に村名がみえる。

村内の渡瀬には菅原道真を祀る天満神社、古賀と田中には手力男命を祀る印鑰いんにやく神社がある。


渡瀬村
わたぜむら

[現在地名]門前町渡瀬

入山いりやま村の東、仁岸にぎし川北岸の傾斜地と山地に立地。集落は同川支流が平野部に出る谷口にある。垣内に浦土うらづつ村があった。正保郷帳では高一〇〇石余、田方四町八反余・畑方一町八反余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免四ツ四歩(能登奥両郡収納帳)


渡瀬村
わたせむら

[現在地名]竹田市渡瀬

玉来たまらい川上流にある。正保郷帳では松本まつもと郷に属し、田方三〇石・畑方四四石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では穴井迫組のうち、村位は中、免七ツ九分、田三六石余(三町五反余)・畑四三石余(七町五反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田はごくわずかで、開畑九斗余(一町五反余)がある。


渡瀬村
わたぜむら

[現在地名]本宮町渡瀬

下湯川しもゆかわ村の東、四村よむら川の南に位置。北方は四村川を隔てて湯峯ゆのみね村。永禄五年(一五六二)より天保一一年(一八四〇)まで書継がれた某寺算用状(湯川家文書)の永禄頃の記録に「渡せ」の次郎左衛門の名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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