日本大百科全書(ニッポニカ) 「渡辺義雄」の意味・わかりやすい解説
渡辺義雄
わたなべよしお
(l907―2000)
写真家。新潟県三条町(現三条市)生まれ。中学校の入学祝いに父よりコダックのポストカード判カメラを贈られたのをきっかけに現像や引伸しを独学する。1925年(大正14)上京して小西写真専門学校(翌年東京写真専門学校と改称、現東京工芸大学)本科入学。28年(昭和3)にオリエンタル写真工業に入社。30年秋同社の新興写真研究会に幹事として参加し、31年宣伝部に異動して月刊誌『オリエンタルニュース』や『フォトタイムス』などの編集に携わる。32年ころからは、レビューやダンスホール、銀座や浅草といった都市の表層を巧みにとらえて複数の写真で構成したグラフ・モンタージュによるシリーズ「カメラ・ウヮーク」(『フォトタイムス』1932から34年にかけて連載)や、大胆な構成美を特徴とする建築写真「お茶の水駅」(『フォトタイムス』1933年1月号)などを発表し、日本の新興写真(1920年代にヨーロッパでおこった新しい写真の潮流)時代を代表する写真家として活躍する。「カメラ・ウヮーク」のシリーズは美術評論家板垣鷹穂(たかお)(1894―1966)のサジェスチョンによって制作されたもので、カフェーやレビューといったモチーフを小型カメラで撮影し、近代都市へと変貌していく東京の消費生活の断面を切り取った。
34年にオリエンタル写真工業を退社し、銀座にスタジオを開設してからは報道写真や対外宣伝にかかわりはじめる。名取洋之助が主宰する、報道写真を中心にした日本工房が出版した対外文化宣伝グラフ誌『NIPPON』(1934年10月創刊)に写真を提供したり、中央工房(日本工房が分裂し、1934年5月に結成された)の木村伊兵衛らとともに国際報道写真協会に参加し、文楽の舞台写真を中心とした写真集『BUNRAKU』(1939)を出版する。また、日本の文化、実状を海外に宣伝するという目的で設けられた外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱託となり、パリ万国博覧会(1937年5~10月)に出品する写真壁画「日本の住生活」(構成・河野鷹思(たかし)(1906―99))や「日本観光写真壁画」(構成原弘(ひろむ))などに写真を提供している。41年日本報道写真協会の理事長に就任。また、1939年から45年まで東京写真専門学校講師として教鞭をとる。45年の東京大空襲で被災し、ネガやプリントを消失。
第二次世界大戦後は建築写真家としてゆるぎない評価に基づいた活動をする一方、写真文化の再興と普及のためにさまざまな活動を精力的に展開する。1953年(昭和28)には伊勢神宮の第59回式年遷宮(しきねんせんぐう)に際して内宮(ないくう)と外宮御垣内(げくうみかきうち)の初の撮影を行い、古建築のもつモダンな機能美を今日的な眼でとらえ、『伊勢――日本建築の原形』(丹下健三ほかとの共著。1962)を著す。以後、73年と93年(平成5)の遷宮の際にも神宮を撮影した。また56年には写真展「ファミリー・オブ・マン(われら人間家族)」の日本展実行委員を務める。
一方、57年日本写真協会年度賞を受賞した「アジア諸国のすがた」や「コロンボの声」のようなスナップショットによるすぐれた作品も残した。58年には日本写真家協会会長に就任して写真家の職業的社会的地位の向上に努めるだけではなく、同年日本大学芸術学部写真学科の教授に就任し長く後進の指導にあたった。さらに写真家の著作権地位向上のために奔走し、70年の著作権法改正を機に翌71年に設立された日本写真著作権協会の初代会長に就任。78年には勲三等瑞宝章受章。90年には写真家として初めて文化功労者に選ばれた。90年から95年にかけて、設立に尽力した東京都写真美術館初代館長を務めた。
[金子隆一]
『『写真実技大講座 第4巻 スナップ写真の狙ひ方・写し方』(1937・文光社)』▽『『BUNRAKU』(1939・国際報道写真協会)』▽『『モスクワの一日』(1957・平凡社)』▽『『伊勢神宮』(1973・平凡社)』▽『『迎賓館――赤坂離宮』(1975・毎日新聞社)』▽『『現代日本写真全集 日本の美12 神宮と伊勢路』(1979・集英社)』▽『『伊勢神宮――渡辺義雄の眼』(1994・講談社)』▽『『日本の写真家13 渡辺義雄』(1997・岩波書店)』▽『丹下健三、渡辺義雄ほか著『伊勢――日本建築の原形』(1962・朝日新聞社)』▽『渡辺義雄写真、内藤多仲・明石信道ほか文『帝国ホテル――フランク・ロイド・ライト』(1968・鹿島研究所出版会)』▽『奈良六大寺大観刊行会編『奈良六大寺大観 12巻 唐招提寺1』(1970・岩波書店)』▽『「渡辺義雄の世界――人・街・建築への視線」(カタログ。1996・東京都写真美術館)』