水上村
みずかみむら
[現在地名]韮崎市清哲町水上
樋口村の南西に位置する。釜無川に注ぐ竪沢川の左岸にあたり、村の東部を徳島堰が流れる。武川衆の構成員で甲斐源氏の一流である水上氏の本貫地とされる。「甲斐国志」は村内に水上宗普居宅跡があったと伝える。この水上宗普とは水上宗富のことで、天正期(一五七三―九二)に信濃国深志城(現長野県松本市)城主として同国筑摩郡支配に携わり、「甲陽軍鑑」には深志御留守居役としてその名がみえる。水上氏はこれより以前、武田信玄(晴信)の信濃攻略に度々功があり、天文一一年(一五四二)九月二五日の高遠頼継との合戦(安国寺の合戦)では水上美濃守時利が首一つを討取り、晴信から感状を受けている(「武田晴信感状写」甲州古文書)。その後水上六郎兵衛利光が時利の跡を継ぎ(天文一四年「武田晴信印判状写」同文書)、その活動は「高白斎記」にもみえる。
水上村
みずかみむら
[現在地名]藤枝市水上
南新屋村の西に位置し、北・西・南は瀬戸新屋村に囲まれる。大井川扇状地の北縁に立地し、栃山川と瀬戸川に挟まれた湿地帯であったので、排水が悪く水害の多い地であった。村内を内瀬戸谷川が東流し、東海道が通る。志太郡に属した。文亀三年(一五〇三)一二月二一日の満近道者職売券(橋村家文書)に「ミつの上さと一ゑん」として「たうにん、大郎ゑもん殿」のほか三名の道者の名前が記され、満近から橋村八郎大夫に駿河国一円の伊勢道者職が売却されている。
水上村
みずかみむら
[現在地名]遊佐町豊岡
下大内目村の北西にあり、北東は上小松村。地内の上大坪・山道端・水上には奈良―室町時代の集落跡がある。寛永元年庄内高辻帳には水上興野村とみえ高二八九石余。寛永一四年(一六三七)今泉村(現酒田市)の荒地八五石余を当村で引受け、幕末期まで水上村分今泉高とした。明暦二年(一六五六)の検毛帳(飽海郡誌)では高五六九石、ほかに水上分今泉高八五石余。享和三年(一八〇三)には家数二一・人数一二五(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。
水上村
むながいむら
[現在地名]出石町水上谷山
出石町分の北西、出石川の右岸にあり、北は長砂村。地内耕地の名請人には出石城下町方の者が多かったためか、出石藩の領知区分では町分八ヵ村の一つに含まれ、大庄屋組では出石町分大庄屋の支配に属した。本村から東方に離れた出石川支流谷山川の最上流域に枝村の八坂がある(出石封内明細帳など)。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名が載り、高三三〇石余。
水上村
みずかみむら
面積:一九二・五〇平方キロ(境界未定)
球磨郡北東部に位置し、北は八代郡泉村の秘境五箇庄、西は五木村・多良木町、南は湯前町、東は宮崎県東臼杵郡椎葉村に接する。村の約九二パーセントが山林原野で占められており、湯山川や球磨川に沿った山間に集落が点在する。
産業は農林業が主であるが、特産物として茶・椎茸・柚子などの生産が伸びている。また自然の景観を利用した観光にも力が注がれ、県内第二位の標高を誇る市房山(一七二一・八メートル)、その登山口である湯山地区に古くから湧出している温泉、昭和三五年(一九六〇)に多目的ダムとして建設された市房ダム(一・五二平方キロ)、その周辺に植えられた約一万本の桜並木、これらは市房山県立自然公園に指定されている。
水上村
みずかみむら
[現在地名]瑞浪市陶町水上
大川村の東、小里川支流猿爪川沿いにある。中馬街道が東西に通る。恵那郡に属する。慶長郷帳に土岐郡として村名がみえ、一七三石余、旗本小里光親領。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では恵那郡とある。同九年幕府領となる。正保郷帳では田一四八石余・畑五三石余・山年貢二石余、柴山・草山がある。松雑木の御林二ヵ所・一町八反余があった(臼井本元禄郷帳)。天保九年(一八三八)の村明細帳によると田一〇町八反余・畑三町五反余、家数九三・人数三一九。諸職は木挽三・大工一。永禄六年(一五六三)尾張瀬戸から来た加藤景春(春永)の子の基範が織田信長の制札を得て開窯し、以後向窯・田ノ尻窯などで製陶が行われた。
水上村
みのかみむら
[現在地名]日高町水上
国分寺村・石立村の北に位置し、東部は国府平野、西部は丘陵地。古代には高田郷(和名抄)に属したとみられ、当地の深田遺跡から但馬国府移転(延暦二三年)後の年代を示す木簡などが出土し、第二次国府所在地推定の有力な手掛りとして重要視されている。延文元年(一三五六)八月、北朝方の伊達真信は南朝軍攻略のため「水上山」に馳せ参じている(→国分寺城跡)。江戸時代の領主の変遷は禰布村東組に同じ。
水上村
みずかみむら
[現在地名]大和町大字川上字水上
川上扇状地の扇頂に近い位置にあって縄文式土器(押型文土器)が発見され、水上の塚原では石鏃・石匙・石斧(打製)・石錘が発見されている。弥生時代のものとしても大きな甕棺が発掘(監物石工場敷地)されている。また現在破壊されているが、水上古墳は主軸三五メートルの前方後円墳で、前方部と後円部にそれぞれ石室があり、封土上には葺石や円筒埴輪があった。
水上村
みずかみむら
[現在地名]砥用町畝野 水上
東は金木村・岩上村、西は内園村、南は迫村、北は用来村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一三二石七斗余、うち田方四九石八斗余・畠方八二石九斗余。砥用手永に属し、「国誌」は馬場村・向水上村などの小村を載せる。
水上村
みずかみむら
[現在地名]高遠町大字藤沢
東北は御堂垣外村と境、西は藤沢川を境に台村、南は荒町村で金沢道が南北に村を貫いている。
元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳に「一高九拾壱石弐斗六升八合 水上村」とみえる。「高遠領地方旧記」(高遠資料叢書)の元禄九年の部によれば「在問屋共名附、御堂垣外 八右衛門、水上村 名主勤」とあるので、水上村の成立の頃、既に御堂垣外宿の加宿を務めていたと推定できる。
水上村
みずかみむら
[現在地名]柏崎市水上
北は久米村、西は細越村、東と南は山続きである。近世の支配の変遷は久米村に同じ。正保国絵図に高二六四石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高三二二石五斗余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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