漢代美術(読み)かんだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「漢代美術」の意味・わかりやすい解説

漢代美術 (かんだいびじゅつ)

殷・周代の荘重怪奇で重厚な造形作品と比べ,秦・漢代のそれは簡明平易で多彩である。それは,晦渋な饕餮文(とうてつもん)の呪縛から解き放たれ,対象をありのままに見る写実の世界への展開である。もちろんその変化は突然ではない。春秋戦国の間における,宗族による祭政一致支配から官僚制の中央集権君主制への社会の転換は,美術工芸を新たな支配者が希求する現世的願望の表現へと転換させてきた。始皇帝による古代帝国の完成で美術工芸もその最大の表現の場を得た。始皇帝は統一の過程で,一国を滅ぼすごとにその国都の宮殿を模した建物を首都咸陽に建てたといわれる。戦国列強の蓄えた美術遺産も次々とそっくり首都に移されたのである。咸陽には200棟もの宮殿が建てられた。最大の阿房宮は今も東西700m,南北150mの壮大な土壇を残す。1974年発掘の1号宮殿址は31m×13mの版築土台を心とした3層の建物が復元されている。これら建物内部の壁面は3号宮殿のごとくさまざまな壁画で彩られていた。

 地上の宮殿と並び,天下の刑徒70万人を動員して地下宮殿として造営された陵墓は一辺350m,高さ43mの墳丘をもち,少なくも二重の障壁に囲まれた壮大な規模をもつ。74年来,その周辺にさまざまな地下施設が発見され,《史記》の伝える始皇陵内部の様子もあながち荒唐とは思えぬ規模と構成を示しはじめた。とりわけ,陵東方約2kmで発見された兵馬俑坑は3000体に及ぶ等身大の武士俑と軍馬俑が軍団の隊伍そのままに埋められ,個々の兵士の顔面は個性的なまでに写実に富み,耳をそばだてた馬の形姿とともに,秦代造形作品の高度な写実性を示す一方,粛然と隊伍を整えた巨大な群像としての全体からは,陵墓守護の荘重で重厚な気分が見事に保たれている。

 漢は秦の諸制度と文物をおおむね継承した。前漢の初め,地方に封建された創業の功臣たちは戦国以来の都市商工業の新たな庇護者となった。湖南省長沙馬王堆漢墓はかれらの一人,長沙国丞相軑侯(だいこう)利蒼とその妻子の墓である。完全に保存された墓中の副葬品は錦,羅,綺などの多彩な染織品や多数の精美な漆器その他からなる。とりわけ〈成(都)市府〉製造の焼印をもつ漆器は,武帝期に官営工房となる以前,すでに地方の製作工房が高度な技術水準に達していたことを示す。1・3号墓の帛画(はくが)はT字形で長さ2m余,鮮艶な色彩で内容に富み,前漢代の絵画の様相を示す。帛画の内容は始皇帝も終生追い求めた不老不死の世界への昇仙である。《楚辞》《山海経(せんがいきよう)》,それに《淮南子(えなんじ)》などを生んだ戦国時代以来の華南の精神的風土の中で,神話伝説の世界が根強く息づいている。

 呉楚七国の乱を最後として,漢朝は再び全国に強力な中央集権郡県体制を確立した。この国力を背景に武帝は積極的に領土を広げ,宿願の匈奴征討を果たし,西域との通交も開かれた。この武帝の覇業を示すのは前漢諸帝陵中最大の茂陵とその陪冢(ばいちよう)の霍去病(かくきよへい)の墓である。墳丘全体を祁連(きれん)山に見たて,そこに巨石の丸彫による牛・馬その他の彫像を配する。昆明池の石彫群も合わせ,前漢の彫刻は石塊の量感を生かし,要所に写実のさえを利かせた荘重でしかも簡潔素朴な気魄に満ちた表現である。武帝の時代,領土は極大となり,諸制度は整えられ,塩と鉄が専売となった。儒教的礼制が定められ,皇帝以下百官の服装,乗輿,葬礼に煩雑な規定が設けられた。中央と地方に設置された官営工房はそれをまかなうためのもので,戦国以来各地で発達した美術工芸の製作も中央政府に一手に握られたのである。

 戦国の遺風を払いのけた漢様式の創造はこの官営工房の中から生まれ,郡県体制の枠組みに乗って全国各地へ配付されていった。かつて礼の器であった青銅容器は宴楽の器となり,形態は実用的で簡素になった一方,鍍金銀や玉宝石の象嵌(ぞうがん)で飾る豪華な器が作られた。墓中の明器の土器類で彩色によって飾られたものはその写しである。鏡鑑は戦国以来の渦雲文を脱却し,天下大明と身の忠誠を録した明光鏡や清白鏡それに星雲鏡や草葉文鏡の前漢式鏡が生まれた(漢鏡)。近年,咸陽楊家湾などから大量に発見された兵士や騎馬の土偶類は秦の兵馬俑と比べて小型であるが写実がさらに進み,動きをもった実在感に富んでいる。洛陽を中心に発見される空心塼(せん)のスタンプ文様は簡潔な輪郭線のみで人物,動物を生き生きとリアルにあらわす。それに比べ扶桑の樹や山岳などは象徴的である。墓中の山岳はやはり現実の自然でなく,仙境を示すからであろう。

 武帝期の大型墓には1968年,河北省満城発見の劉勝・竇綰(とうわん)墓がある(満城漢墓)。前漢の帝王陵が未調査の現在,漢朝宮廷の日常使用器物の実際をうかがう好資料である。少女をかたどった優美な鍍金〈長信宮〉灯や鋭い目を光らせた金錯豹などはもとより,器物の金具のはしばしに至るまで巧みな造形と練達な技巧を示す。金鏤玉衣は死体の腐敗を防ぐと信じられたし,透し彫と金銀錯で雲気のたなびく仙境蓬萊山を造形した博山炉には神仙や霊獣が見え隠れする。墓主人は現世の財宝に囲まれつつ昇仙し,現世と同じ生活の永続を願望した。山東省臨淄(りんし)金雀山9号墓出土の帛画の世界も同様であるし,満城漢墓と同構造の山東省曲阜九竜山崖墓や北京市大葆台1・2号墓,河北省定県40号墓,湖南省長沙咸家湖曹墓,象鼻嘴1号墓などの〈黄腸題湊〉をもった前漢代王侯級の大型墓が指向するところも同じである。前漢の後期,貢禹(前124-前44)は宮廷の奢侈をいさめ,斉郡の三つの服官(官営織物工場)の職工数がおのおの数千人,蜀の広漢郡製造の金銀器は歳費500万両,三つの工官(官営工芸工場)では官費5000万両を費消している,と述べる。前漢後期の美術工芸はこの漢朝の奢侈に支えられ発展した。

 前漢末年,外戚として権力を握った王莽(おうもう)は周制の復興を目ざし,陰陽五行,讖緯説(しんいせつ)を奉じて理想社会の実現に努めた。洛陽城の南郊には王莽の建てた三雍の跡が残り,宇宙図としての方格と東西南北を青竜・白虎・朱雀・玄武の四神の姿であらわした方格規矩四神鏡は,典型的な新代の鏡鑑である。しかし,王莽の改革により圧迫を受けた地方豪族は,同じ出自の劉秀を擁して王莽を倒し後漢王朝が成立した。山西省平陸墓,内モンゴルのホリンゴール新店子1号墓などの壁画,また四川省各地の画像塼にしきりにあらわされる農耕や牧畜の状況,それに四川省の漢墓に多い水田・水池の模型などは農牧地に強い関心を持つ墓主人が地主階級にほかならないことを示す。

 後漢においては,前漢代では行政上の理論であった儒教が家族道徳に及ぶ人民教化の礼教として浸透していった。楽浪彩篋(さいきよう)塚の彩篋に描かれた孝子伝や,山東省嘉祥武氏祠画像石刻の聖賢,忠臣,孝子,烈女などの画像絵巻は礼教主義の端的なあらわれであり,その伝統は山東省沂南(きなん)画像石墓へと続いている。礼教と並ぶ墓主の主要な関心は宴楽である。河南省密県打虎亭2号墓壁画では,几帳の中の墓主人を中に,左右に賓客が居流れる豪華な宴飲の席にさまざまの楽舞や奇術,曲芸が演じられている。洛陽西七里河墓では,多数の明器土偶でしつらえられた晩餐の卓に6人の奏楽隊,七盤舞踊に跳丸,倒立,滑稽の曲芸が彩りをそえる。大型の燭台では竜に乗った羽人さえ装飾の一つに過ぎない。醸造場や猪圏(豚小屋),鶏小屋,番犬など,これら明器土偶の造形は壁画の宴飲の場面と同様,地主階級の現世の享楽の状況を模型によってあらわしたものである。河南省霊宝張湾墓出土の緑釉建築模型群と四川省成都羊子山の院落画像塼を合わせると,ほぼ当時の地主邸宅の様子を具体的に知ることができる。

 この建築模型のほか,土製容器類には緑釉を施したものが少なくない。褐釉とともに低火度焼成による軟釉で実用品ではなく,褐釉は前漢後半,緑釉は後漢代の明器に用いられた。《後漢書》礼儀志には天子の大喪の時,墓中に納める多数の明器の規定がある。明器に対し,漢代の実用の土器は灰陶であるが,華南沿海では戦国時代以来スタンプ文様で飾った印紋土器が作られていた。青磁の釉をかけた古越磁は後漢の後期から,この地方を中心に発展してゆく。さらに南の福建省閩侯(びんこう)荘辺山には閩越国墓群,広東省広州華僑新村には南越国墓地,雲南省晋寧石寨山・李家山には滇(てん)国墓地がある。これらはいずれも前漢代の蛮夷諸国で,特有の様式をもった青銅器物をつくったが,後漢代までには完全に漢の郡県に組み込まれてしまい,わずかに土器類にその特色を残すのみである。

 一方,新たに開けた西域では漢の植民地がおかれた。新疆ウイグル自治区ニヤ(尼雅)や甘粛省酒泉・居延・武威の遺跡がそれで,乾燥地帯のため木製品や染織製品が良く保存されている。甘粛省の武威雷台には後漢の張某将軍の墓があり,汗血馬を写したみごとな〈踏燕奔馬〉を含む一群の青銅車馬模型があって,将軍職の盛んな車馬行列のさまを模型であらわしている。内モンゴルのホリンゴール新店子1号墓には,前室壁面に孝廉により郎に推挙されてから各地の郡県の長官を歴任し護烏桓校尉に至った墓主の履歴をやはり車馬行列の姿で描いている。両墓と同様30~40m径の墳丘と3室以上の墓室をもった望都1・2号墓も河南尹と太原太守の墓に比定されており,これら大型墓が後漢代2000石級の身分の高級官僚が築きえた墳墓であったと思われる。これら大型墓は小型群集墓とは別の場所につくられ,後漢の身分制社会の造墓規制の一端をうかがうことができる。

 漢墓中にまま発見される買地券は後漢代前期ではなお実際の土地売買文書の形態をとどめている。墓を永遠の住いとして確保し,そこにあらゆる来世での必要物資を持ち込んだ。しかし,その買地券の文面も後漢の後期からは迷信的色彩を帯びる。後漢末の政治の混乱のなかで,儒教にかわり,道教や仏教が支配層の新たな精神的よりどころとなった。儒教的道徳に彩られた漢代の造形美術も,三国・晋代の道教や仏教的世界の造形へと移り変わってゆくのである。
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