烏丸光広(からすまみつひろ)(読み)からすまみつひろ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

烏丸光広(からすまみつひろ)
からすまみつひろ
(1579―1638)

近世初期の公卿(くぎょう)で歌人。父は准大臣従(じゅ)一位烏丸光宣(みつのぶ)。烏丸家は藤原氏日野家の分家。3歳で叙爵。侍従、右左少弁、蔵人(くろうど)を経て1599年(慶長4)蔵人頭に補せられる。細川幽斎(ゆうさい)に和歌を学び、1600年22歳のとき、関ヶ原の戦いが起こり、幽斎丹後(たんご)田辺城で石田三成(みつなり)方の軍に包囲されるや、後陽成(ごようぜい)天皇の勅命を受けて中院通勝(なかのいんみちかつ)、三条西実条(さんじょうにしさねえだ)(1575―1640)とともに開城の勧告に赴く。のち、幽斎より古今伝授を受ける。参議に上ったが、1609年勅勘を被る。1611年赦免され、1612年権中納言(ごんちゅうなごん)、1616年(元和2)権大納言に上る。1620年には正二位に進む。寛永(かんえい)15年7月13日、60歳で没。近世初期の代表的堂上(どうしょう)歌人の一人で、家集に孫の資慶(すけよし)(1622―1669/1670)の編んだ『黄葉(こうよう)和歌集』がある。その一首「身のうさを忘れてむかふ山ざくら花こそ人を世にあらせけれ」。歌風は当時の堂上和歌の主流である二条派の風であるが、一糸和尚(いっしおしょう)に参禅したので禅学の影響があってか高遠で清高な作品がみられる。『十八番職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわせ)』、幽斎の談話を筆録した『耳底記(にていき)』もある。『耳底記』は1598年から1602年にかけての和歌聞き書きで、江戸時代には和歌の学習に広く読まれた。文章も巧みで『あづまの道の記』『春の曙(あけぼの)』などの紀行文がある。書家としても優れ、一派をつくり、水墨画のたしなみもあった。逸話の多い人でもある。

[宗政五十緒]

光広の書画

光広は少年のころ早くも、慣例に従って持明院(じみょういん)書道に入門した。現存する和歌懐紙の端作(はしつくり)の官名によって、16~21歳の執筆と推定されるものがいくつか残っている。これによると、持明院流の影が色濃くとどめられている。ところが光広の書は、壮年期に入るころ光悦流に変貌(へんぼう)している。その動機は不明ながら、1682年(天和2)刊の灰屋紹益(はいやじょうえき)の『にぎはひ草』によれば、「からす丸光広卿(きょう)は、光悦に物書事(ものかくこと)をならひ物し給ひける」と書かれているので、光悦の手ほどきを受けたことが知られる。やがて彼は、角倉素庵(すみのくらそあん)と並んで光悦流屈指の名手となった。いま一群として残る光広の筆跡によってもそれがうなずける。ところが、光広は40代なかばのころ、一時期、定家(ていか)流の書をかいている。が、40代の終わりから50代にかけて、光悦流を踏まえながら、不羈奔放(ふきほんぽう)な性格を反映させて、独自の境地を開いた。まさに光広流ともいうべき新書風の誕生で、これは他の模倣追随も許すものではなく、まったく光広のひとり舞台であった。軽妙な水墨画にも巧みで、山水、富士山、達磨(だるま)などの作品を残している。これらには三角篆書(てんしょ)〈光広〉の墨印を捺(お)している。

[小松茂美]

『小松茂美編『烏丸光広』(1982・小学館)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android