照源寺(読み)しようげんじ

日本歴史地名大系 「照源寺」の解説

照源寺
しようげんじ

[現在地名]松野町富岡

富岡とみおかの字くりヶハサにある。恵日山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊観世音・薬師如来文殊菩薩

天和元年(一六八一)の「宇和旧記」によると、開山は紀州由良法燈円明国師の法系を継ぐ虚明で、応永一七年(一四一〇)六月一五日に遷化したとある。また代々川原淵殿渡辺氏の菩提寺であった。同書には「此照源寺に十二坊あり」として宝徳ほうとく庵・治部卿庵・三清庵・竜華りゆうげ院・加僧房・薬師やくし寺・宗重庵・竜泉りゆうせん庵・浮岸寺・井竜庵・福寿ふくじゆ院・三堂庵をあげ、これらは寺外に存在するとしているが、現在は地名に若干その名を残すのみである。


照源寺
しようげんじ

[現在地名]桑名市東方

東方ひがしかたの丘陵地の東麓にある。東海山泥院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来立像。寛永元年(一六二四)三月一四日に桑名藩主松平(久松)定勝が死去したため、その子定行が創建し、翌年に竣工。最初は定勝の院号により崇源そうげん寺と称し、寺領三〇〇石の寄進を藩主から受けた。遠州掛川の天然かけがわのてんねん寺から来た僧三甫の開基。同三年に将軍徳川秀忠の夫人が死去し、崇源院と号したため、同名を避けて東海山照源寺と改めた。


照源寺
しようげんじ

[現在地名]延岡市川原崎町

恵日山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には五ヶ瀬川南岸の城下なか町に所在した。近代に入りきた町に転じ、平成三年(一九九一)現在地に移転。天正年間(一五七三―九二)正西が草庵を開創したのに始まると伝える。元禄四年(一六九一)の妙専寺由緒書(妙専寺文書)によれば、妙専みようせん寺末の照源寺は慶長年中(一五九六―一六一五)建立、同一一年四月絵像の本尊を京都西本願寺より許され、寛永四年(一六二七)寺号と木仏を免許されたという。


照源寺
しようげんじ

[現在地名]弘前市西茂森町二丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。長勝ちようしよう寺を主座とする上寺のなかにある。清安せいあん寺と宝積ほうしやく院の間に位置。金沢山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。もと耕春こうしゆん末寺。開山は梅月香。開基は不詳。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、温湯ぬるゆ(現黒石市)にあったとし、開基は元和五年(一六一九)とある。


照源寺
しようげんじ

[現在地名]御調町市

いちの中心地の東にあり、浄土真宗本願寺派。久本山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、寛喜元年(一二二九)明光が諸原もろはら谷に建立したが、兵乱のために衰退、明応八年(一四九九)八月、鎌倉最宝さいほう寺九世明心弟仙源が再興し、永禄元年(一五五八)四世康珍のとき、雲雀ひばり城主池上因幡守を頼って石原いしはら谷に移り、元文二年(一七三七)三月に現在地に移る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の照源寺の言及

【御調[町]】より

…東の福山市,南東に接する尾道市への通勤者も多く,工場の誘致も進められている。市(いち)にある浄土真宗照源寺は鎌倉期の木造涅槃仏像(重要文化財)を蔵する。丸河南(まるかなん)の高御調(たかみつぎ)神社の例祭には〈みあがり踊〉が奉納される。…

※「照源寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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