片倉村
かたくらむら
[現在地名]八王子市片倉町・西片倉一―三丁目・北野台三―五丁目・みなみ野一丁目・同三丁目・同五―六丁目・兵衛一丁目
湯殿川と兵衛川の合流域一帯の低地から多摩丘陵の御殿峠に至る丘陵地にかけて立地する。西は宇津貫村。南部は多摩丘陵地帯にかかり、南端に杉山峠(現御殿峠)、南東端に鑓水峠がある。「風土記稿」は杉山峠の道を相州道、鑓水峠越の道を鎌倉古街道とする。地内の住吉神社は住吉大明神と称し、往時は片倉城の守護神で、別当の来光寺は片倉城主大江師親が応永年間(一三九四―一四二八)に開基したと伝える。天文二四年(一五五五)四月の懸仏銘(風土記稿)には「多西郡横山片倉村来光寺鎮守熊野三所大権現」とある。のち片倉は北条氏照の支配領域となり、片倉城は滝山城の支城として八王子と小田原を結ぶ往還路を監視する役割を担った。
片倉村
かたくらむら
[現在地名]望月町片倉
鹿曲川沿い、比田井村・春日村・同新町(ともに現望月町)と相対して東岸に位置する。東は長者原等の丘陵を越えて布施谷。
大井庄のうちといわれるが不詳。慶長一五年(一六一〇)の田野口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳(竹内文書)の望月組のうちに「三百貫文 片倉村」とある。慶安四年(一六五一)禰津領となって幕末に至る二一九石余(寛保年間)の村。元和八年(一六二二)には五二六石余(佐久郡高書上帳)であったが、小諸城主松平憲良の新田開発策の中で、寛永年中(一六二四―四四)に岩下・入片倉がそれぞれ新田村として成立、岩下村は独立して禰津領となり、入片倉は天保九年(一八三八)に至って一村をなす。
片倉村
かたくらむら
[現在地名]立川町肝煎
清川村の南西、立谷沢川の下流左岸に位置し、南は肝煎村、東は立谷沢川を隔て川原新田村。立谷沢七ヵ村の一村。正保郷帳に村名がみえ、田一〇九石余・畑二石余。寛文九年(一六六九)の検地帳(斎藤文書)では高九九石余、反別田七町二反余・畑二反余、名請人二〇人。天保六年(一八三五)の戸籍人別帳(同文書)では家数一八・人数一一三。弍郡詳記では高六八石余、免四ツ六分、家数一七。当村西方の大平山一帯に文化一〇年(一八一三)庄内藩直轄の馬牧場が開かれ、当村組頭権三郎が世話役に任命された(「手控帳」斎藤文書)。
片倉村
かたくらむら
[現在地名]高遠町大字藤沢
藤沢川上流の山峡の村。南下流は御堂垣外村に接し、上流の北部には守屋山(一六五〇・三メートル)や杖突峠(一二四七メートル)・金沢峠(一三一五メートル)などがあり、諏訪郡と境をなしている。
中世、下流の村々とともに藤沢郷に含まれ諏訪社上社領であった(「大宮御造栄之目録」諏訪大社上社文書)。地名の初見は天正九年(一五八一)三月二一日の武田勝頼朱印状案(御判物古書写)で、勝頼は年貢増徴により逐電した片倉の百姓どもを召還するよう保科正直に命じている。
片倉村
かたくらむら
[現在地名]佐伯町丸山
吉井川東岸、寺谷山(四二三メートル)の北西高原上にある。北は大岩村、西は南山方村。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に日笠内として村名がみえ、物成一一石余、夫米六斗余。寛永備前国絵図では高二四石余。「備陽記」では田畠四町余、家数一四・人数七五、岡山城下栄町まで道程九里、池一とある。「吉備温故秘録」によると、片倉小十郎宅地跡がある。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高四四石余、蔵入。
片倉村
かたくらむら
[現在地名]原町市片倉
東にある矢川原村の枝郷。太田川南岸の阿武隈高地東縁に位置し、南は羽倉村(現小高町)。「奥相志」に「北は野馬逐原、馬場邑に接し川流を以て境と為す」と記される。天保郷帳には矢川原村に「古者 矢川原村・片倉村・高欠新田三ケ村」と注記される。明暦二年(一六五六)に矢川原村から分村、同年の高三一石余(相馬藩政史)。
片倉村
かたくらむら
[現在地名]神奈川区片倉町
東は神太寺村、南は青木町、西は三枚橋村・下菅田村、北は三枚橋村と岸根村(現港北区)に接する。「風土記稿」に「谷間沢多し、其あたりに水田少しくあり、故に陸田の方多し」とある。近世は幕府直轄領。田園簿に村名があり、田三七石二斗余、畑四九石六斗余、萱野役として塩一俵一斗七升五合を納めた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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