日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野興以」の意味・わかりやすい解説
狩野興以
かのうこうい
(?―1636)
桃山後期の画家。豊臣(とよとみ)秀吉の夫人北政所(きたのまんどころ)が、秀吉の没後その冥福(めいふく)を祈るために創建した京都・高台寺(こうだいじ)の障壁画(しょうへきが)制作に狩野光信(みつのぶ)、渡辺了慶とともに参加したことが知られ、光信のもっとも優れた弟子の一人に数えられる。牧渓(もっけい)や雪舟に私淑し、水墨画の古典的画法にも通暁した興以が果たした最大の功績は、光信の弟孝信(たかのぶ)の遺児守信(探幽(たんゆう))、尚信(なおのぶ)、安信3兄弟の後見としてその指導にあたったことで、彼は江戸狩野様式の形成に大いに貢献した。そうした功績ゆえか、のち紀州徳川家に絵師として仕え、また法橋(ほっきょう)にも叙せられた。寛永(かんえい)13年7月17日没。種徳寺(東京都港区赤坂)に葬られた。代表作に、二条城二の丸御殿白書院障壁画、『山水図屏風(びょうぶ)』(東京国立博物館)、『観音竜虎(かんのんりゅうこ)図』(建福寺)などがある。
[榊原 悟]
『土居次義著『日本美術絵画全集9 狩野永徳・光信』(1981・集英社)』