1939年8月23日,空路モスクワに到着したリッベントロップ・ドイツ外相は,ただちにクレムリンでスターリン・ソ連共産党書記長,モロトフ人民委員会議長(首相)との協議に入り,その日の深更,独ソ不可侵条約を結んで世界を驚倒させた。(1)相互の不侵略,(2)締約国の一方が第三国と戦争状態に入った場合,他方はこの第三国を援助しない,(3)共通の利害に関する相互協議,(4)締約国はいずれも,他方を対象とした国家の連合に参加しない,(5)相互間の紛争の平和的解決,(6)期限は10年,反対がなければ,その後さらに5年延長。これが条約のおもな内容であった。さらに重大な取決めは,同時に調印された秘密議定書であり,そこでは独ソ両国が,バルト諸国とポーランドにおける勢力範囲を画定し,バルカンにおけるソ連の政治的優越性を認めた。秘密議定書についてソ連は長くその存在を否定してきたが,ペレストロイカの過程で特にバルト三国の独立運動の側からこの問題が取り上げられ,ついにソ連も調印の事実を認めた。1992年10月には議定書原本が発表された。
第2次世界大戦直前の権力政治状況をあからさまに物語っている独ソ両国の接近は,それなりの前史をもっている。1938年10月のミュンヘン協定(ミュンヘン会談)によって国際的孤立の危険に直面したソ連外交は,翌年春以降のヨーロッパ政局の流動化とともに,その活動範囲を拡大しはじめ,再び活発な対独抵抗戦線の構築にとりかかった。しかし4月に開始された英仏ソ3国交渉は遅々として進まず,8月半ばの三国軍事交渉もソ連の英仏側に対する不信をつのらせることにしかならなかった。ソ連が英仏側との交渉に見切りをつけつつあったとき,ポーランド攻撃を準備していたドイツは,二正面作戦を避けるため,対ソ関係の打開を焦るようになった。こうして,スターリンにとって唯一の行動基準は国家的安全と領土拡大の〈権力政治〉のみとなり,ぎりぎりの段階でドイツとの協定に踏み切った。しかし独ソ間の交渉は,ドイツと同盟交渉を続けていた日本に最後まで秘匿され,平沼騏一郎内閣は不可侵条約成立の報に接して,〈複雑怪奇〉という言葉を残して総辞職した。またソ連の行動は,反ファシズムの大義への裏切りとして,多くの共産主義者や左翼知識人の間で深刻な動揺を生んだ。
→第2次世界大戦
執筆者:平井 友義
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1939年8月23日,モスクワでドイツ外相リッベントロップとソ連外務人民委員モロトフによって調印された条約。一方が第三国との戦争の際の他方の中立維持,一方を敵視する同盟への他方の不参加などを規定。条約には付属秘密議定書があり,ポーランド,フィンランド,バルト三国の領土的・政治的変更の場合,独ソ間で利益範囲を分割することを決めていた。条約は反ファシズム運動をはじめ世界に衝撃を与えた。
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第2次大戦直前に独ソ両国が相互の侵略禁止などを定めた条約。1939年8月23日,モスクワでドイツ外相リッベントロップとソ連外務人民委員モロトフが調印。付属の秘密議定書には東ヨーロッパでの独ソ両国の勢力圏画定が含まれ,侵略的性格をもっていた。条約は日・独・伊3国間で進行していた防共協定強化交渉に対する背信であり,平沼内閣は退陣に追い込まれた。41年独ソ戦争開始により消滅。
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…そのための一つの手段がこの時期にソ連で荒れ狂った大粛清の嵐であり,多くのコミンテルン指導者や活動家がその犠牲になった。こうして人民戦線のエネルギーの枯渇化につれて,ミュンヘン協定(1938年9月),独ソ不可侵条約(1939年8月)に見られるように反ファシズムの理念は地に落ち,とりわけ後者は共産党員の間で大量の離党者を出す原因となった。
[解散]
第2次世界大戦の勃発にさいして,公式的な非戦ポーズをとったコミンテルンの方針は英仏共産党の国民からの孤立を深めることにしかならなかったが,ドイツの対ソ攻撃(1941年6月)はコミンテルンをこの袋小路から救い出し,共産党員がレジスタンスの先頭に立つことを可能にした。…
…なお日本の全面的な中国侵略の開始(1937年7月)に対してF.ローズベルトは10月,有名な〈隔離演説〉で日本の危険性に警告し,その後きわめて慎重ながら,まだ圧倒的な孤立主義的ムードに抗して,極東政策の軌道修正に入った。
[宥和政策の失敗と独ソ不可侵条約]
1930年代後半の世界は,こうして共産主義,自由主義,ファシズムの三大勢力の角逐の場となっており,イデオロギーと権力政治が複雑なパターンを織り成すようになった。37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。…
…ソ連外交の方向転換はここに不可避となった。39年の独ソ不可侵条約はその回答であった。同時に結ばれた〈秘密議定書〉に見られるように,スターリンはいまや露骨な〈権力政治〉の道に踏み出した。…
…コミンテルンでも27年以降,連続して執行委員会幹部会のメンバーに選ばれ,29年ブハーリン失脚後,事実上の指導者となったが,30年人民委員会議議長(首相)に就任して第一線から退いた。終始スターリンの政策の忠実かつ冷酷な執行者の役割に徹し,39年5月から外務人民委員を兼ね,同年独ソ不可侵条約を締結して世界を驚倒させた。41年スターリンに人民委員会議議長の職を譲り,みずからは外交部門の指揮に当たり,独ソ戦が勃発すると国家防衛委員会副議長として議長スターリンを補佐し,また戦中から戦後の対英米折衝でしたたかな交渉ぶりを発揮した。…
※「独ソ不可侵条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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