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独ソ不可侵条約 どくソふかしんじょうやくGerman-Soviet Nonaggression Pact

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

独ソ不可侵条約
どくソふかしんじょうやく
German-Soviet Nonaggression Pact

1939年8月 23日ドイツ,ソ連間で締結された条約。 38年9月のミュンヘン協定を典型とするイギリス,フランスの対独宥和政策は,39年3月ドイツがチェコスロバキアを支配下におくに及び,破綻をきたした。このため両国はソ連を巻込みつつドイツに対抗する統一戦線を組もうとした。しかし3国の交渉も進展をみせず,ミュンヘン会談以来イギリス,フランスに対して不信をいだいていたソ連はドイツに接近。 39年初めから通商協定をめぐって折衝を重ね,ドイツの J.フォン・リッベントロップ外相の訪ソを待って独ソ不可侵条約が締結された。条約は7ヵ条から成り,(1) 締約国は互いに攻撃せず,一方が第三国と交戦状態に入った場合,他方はこの第三国に援助を与えない,(2) 締約国は共通の問題について随時協議する,(3) 締約国はいずれも他方を目標とする同盟に参加せず,両国間の紛争は平和的手段によって解決するなどがおもな内容。またポーランド,バルト3国の分割が付属秘密議定書において取決められた。この条約の発表後,ドイツはポーランド侵攻を開始,9月にはイギリス,フランスがドイツに宣戦布告を行い,第2次世界大戦が勃発。 41年6月 22日ドイツ軍によるソ連攻撃が開始され,条約は破綻した。

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デジタル大辞泉の解説

どくソ‐ふかしんじょうやく〔‐フカシンデウヤク〕【独ソ不可侵条約】

1939年8月、ドイツとソ連との間で結ばれた相互不可侵条約。付属の秘密議定書では東ヨーロッパにおける両国の勢力圏が定められ、両国はこれに従ってポーランドを分割した。1941年6月、独ソ戦の開始によって消滅。→ポーランド分割

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百科事典マイペディアの解説

独ソ不可侵条約【どくソふかしんじょうやく】

第2次大戦直前の1939年8月調印された条約。1938年のミュンヘン会談後孤立したソ連と,対ポーランド攻撃を容易にすることを目的としたドイツとの妥協の産物。ソ連の反ファシズム集団安全保障政策・人民戦線政策からのこの大転換は,国際共産主義運動にも大きな衝撃を与えた。
→関連項目スターリンノモンハン事件バルト三国平沼騏一郎内閣リッベントロップ

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世界大百科事典 第2版の解説

どくソふかしんじょうやく【独ソ不可侵条約】

1939年8月23日,空路モスクワに到着したリッベントロップ・ドイツ外相は,ただちにクレムリンでスターリン・ソ連共産党書記長,モロトフ人民委員会議長(首相)との協議に入り,その日の深更,独ソ不可侵条約を結んで世界を驚倒させた。(1)相互の不侵略,(2)締約国の一方が第三国と戦争状態に入った場合,他方はこの第三国を援助しない,(3)共通の利害に関する相互協議,(4)締約国はいずれも,他方を対象とした国家の連合に参加しない,(5)相互間の紛争の平和的解決,(6)期限は10年,反対がなければ,その後さらに5年延長。

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大辞林 第三版の解説

どくソふかしんじょうやく【独ソ不可侵条約】

1939年8月23日モスクワで調印された、ドイツ・ソ連両国の相互不可侵に関する条約。東ヨーロッパにおける両国の勢力範囲を画定した秘密議定書が付属されていた。一週間後ドイツがポーランドに侵入、9月にはソ連軍もポーランドに侵入、両国はポーランドを分割した。41年6月のドイツ軍のソ連侵攻により破棄。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

独ソ不可侵条約
どくそふかしんじょうやく
Russo-German Nonaggression Pact英語
Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspaktドイツ語

1939年8月23日モスクワで調印された独ソ間の条約で、秘密付属議定書が付せられる。条約は全文7か条。両国は相互に攻撃せず、両国の一方が第三国から攻撃された場合、他方はこの第三国を援助しない(第1条)、共通の利害に関する問題では協議する(第2条)などを約し、期間は10年(第6条)、調印と同時に発効する(第7条)という内容であった。両国は、秘密付属議定書において、東欧の領土的・政治的再編成の際、ポーランドを分割し、ナレウ、ビスワ、サンの各河川を境界として、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベッサラビアをソ連の、リトアニアをドイツの勢力範囲とすることを確認した。だがこの点は、ドイツの攻撃でポーランド国家が崩壊したのち、39年9月28日モスクワで調印された「独ソ境界・友好条約」の秘密補足議定書では若干修正され、リトアニアはソ連の勢力範囲とされるかわりに、ポーランドの分割線はほぼいわゆるカーゾン線に沿って確定された。
 イデオロギー的に相いれない反ソ反共のナチス・ドイツと反ファシズムの社会主義国ソ連との同盟は予想もされなかったから、この条約の成立は全世界を驚倒させた。とくにドイツとの同盟に意を注いでいた日本の平沼騏一郎(きいちろう)内閣は、この事態に直面し、「複雑怪奇である」と声明して総辞職するに至った。だが、ヒトラーは、ポーランドとの紛争が英仏との戦争に至る場合、仏ソの二正面戦争を避けるためソ連の中立を欲したし、他方スターリンは、英仏に対する不信と自国の軍事的強化のため、ヨーロッパでの紛争の圏外にたとうとした。つまり、いずれの側も国家利益を冷静に現実政治的に計算し、にわかに接近して条約を締結したのである。かくてこの条約の成立は第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)との関連において論じられ、とくに大戦後アメリカ側から発表された秘密付属議定書については、ソ連側は激しく反発し、その存在すら疑われたこともあったが、今日ではその存在をあえて否認するものはみられない。[吉田輝夫]
『斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(1965・東京大学出版会) ▽テイラー著、吉田輝夫訳『第二次世界大戦の起源』(1977・中央公論社)』

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世界大百科事典内の独ソ不可侵条約の言及

【コミンテルン】より

…そのための一つの手段がこの時期にソ連で荒れ狂った大粛清の嵐であり,多くのコミンテルン指導者や活動家がその犠牲になった。こうして人民戦線のエネルギーの枯渇化につれて,ミュンヘン協定(1938年9月),独ソ不可侵条約(1939年8月)に見られるように反ファシズムの理念は地に落ち,とりわけ後者は共産党員の間で大量の離党者を出す原因となった。
[解散]
 第2次世界大戦の勃発にさいして,公式的な非戦ポーズをとったコミンテルンの方針は英仏共産党の国民からの孤立を深めることにしかならなかったが,ドイツの対ソ攻撃(1941年6月)はコミンテルンをこの袋小路から救い出し,共産党員がレジスタンスの先頭に立つことを可能にした。…

【戦間期】より

…なお日本の全面的な中国侵略の開始(1937年7月)に対してF.ローズベルトは10月,有名な〈隔離演説〉で日本の危険性に警告し,その後きわめて慎重ながら,まだ圧倒的な孤立主義的ムードに抗して,極東政策の軌道修正に入った。
[宥和政策の失敗と独ソ不可侵条約]
 1930年代後半の世界は,こうして共産主義,自由主義,ファシズムの三大勢力の角逐の場となっており,イデオロギーと権力政治が複雑なパターンを織り成すようになった。37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。…

【ソビエト連邦】より

…ソ連外交の方向転換はここに不可避となった。39年の独ソ不可侵条約はその回答であった。同時に結ばれた〈秘密議定書〉に見られるように,スターリンはいまや露骨な〈権力政治〉の道に踏み出した。…

【モロトフ】より

…コミンテルンでも27年以降,連続して執行委員会幹部会のメンバーに選ばれ,29年ブハーリン失脚後,事実上の指導者となったが,30年人民委員会議議長(首相)に就任して第一線から退いた。終始スターリンの政策の忠実かつ冷酷な執行者の役割に徹し,39年5月から外務人民委員を兼ね,同年独ソ不可侵条約を締結して世界を驚倒させた。41年スターリンに人民委員会議議長の職を譲り,みずからは外交部門の指揮に当たり,独ソ戦が勃発すると国家防衛委員会副議長として議長スターリンを補佐し,また戦中から戦後の対英米折衝でしたたかな交渉ぶりを発揮した。…

※「独ソ不可侵条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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