猿橋村(読み)さるはしむら

日本歴史地名大系 「猿橋村」の解説

猿橋村
さるはしむら

[現在地名]大月市猿橋町猿橋

下和田しもわだ村の南、桂川とその支流葛野かずの川の合流点付近に位置し、武蔵・相模への交通の要衝にあたり、村内に甲州道中宿駅も置かれていた。村名は桂川に架かる橋、猿橋に由来する。古くは西隣の殿上とのうえ村と一村をなしていたが、文禄検地の際に分村したといい、枝郷に小野・幡野はたのがある(甲斐国志)。伝説によれば猿橋は百済の渡来人が架橋したというから古くから存在したことになるが、史料上は「鎌倉大草紙」に応永三三年(一四二六)武田信長と彼を追討するため関東公方足利持氏が派遣した一色持家軍との戦闘が「さる橋」で行われ、信長軍が敗れたとみえるのが早い。


猿橋村
さるはしむら

[現在地名]沢内村猿橋

太田おおた村の北に位置し、和賀川上流両岸の河岸段丘と山地に立地。南北に和賀川に沿って沢内街道が通る。東への道は、「御家被仰出」安永八年(一七七九)の条に「此度沢内より万丁目通へ近道御普請出来に付、来春より牛馬共に通用被仰付候」とある。沢内よりというのは当村の七内川しちないがわをさし、万丁目まんちようめ通の笹間ささま(現花巻市)を経て花巻に通じていた。西へも太田村馬坂まさか(真坂)峠越で出羽国仙北せんぼく郡へ通じていた。「沢内年代記」に「沢内開闢之事」として、当村の万治まんじヶ沢に住む魔性を、仙北から山越えしてきた神の化身が退治して、平和な沢内の基を築いたとみえる。


猿橋村
さるはしむら

[現在地名]新発田市西園にしぞの町一―二丁目・御幸みゆき町二丁目・住吉すみよし町一―三丁目・舟入ふないり町二丁目

新発田城下の西に接し、字館裏たてうらには戦国期の館跡があり、館屋敷道たてやしきみちなどの字名が残る。新発田藩領で、慶長一七年(一六一二)の御蔵納同払方帳(新発田市史資料)に新発田組として、猿橋与藤次分九〇石二斗余・同村ほど役一石二斗余が記される。正保国絵図では二二〇石余、天保郷帳で四二六石九斗余。

かつては新発田城周辺は湿地や沼沢地で、「猿橋辺より聖籠山迄水面の場所なれば舟ならで往来ならざりし」というが、明暦元年(一六五五)聖籠せいろう新川を掘って水を落し、新道を付けた(蕉鹿年代記)


猿橋村
さるはしむら

[現在地名]新井市猿橋

むかい山の北山麓にあり、居村・野田のだ樽見たるみの三集落からなり、飯山いいやま道沿いに北は楡島にれしま村、南東は長沢原ながさわはら村と接する。正保国絵図に村名があり、天和三年郷帳に高四〇石五斗余、うち山高二石四斗余・漆高一石九斗余とある。享保八年(一七二三)の質取人訴状(阿部道治氏蔵)に村内の五人が名を連ねている。


猿橋村
さるばしむら

[現在地名]五泉市猿橋

能代のうだい川右岸の低湿地にあり、東は船越ふなこし村、南西は山崎やまざき村に接する。元和九年(一六二三)清三郎兄弟の開発と伝える。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では下条組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一四石七斗余とある。


猿橋村
さるはしむら

[現在地名]門前町猿橋

小滝こだき村の西、阿岸あぎし川中流の峡谷と山地に立地。正保郷帳では高一〇〇石余、田方三町四反余・畑方三町二反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一〇六石余、免三ツ九歩(能登奥両郡収納帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android