玄恵(読み)げんえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「玄恵」の意味・わかりやすい解説

玄恵
げんえ
(?―1350)

鎌倉時代から南北朝時代にかけての天台宗学問僧。「げんね」ともいい、玄慧とも書く。独清軒健叟の号がある。法印権大僧都(ごんだいそうず)に昇った。儒学にも通じ、公卿(くぎょう)らに講じたり、漢詩添削なども行った。『建武式目(けんむしきもく)』の制定にもかかわり、足利氏との関係も深かった。『庭訓往来(ていきんおうらい)』や『太平記』の作者とされるが確かではない。『平家物語』の流布本への改作者とする説もある。

[會田 実 2017年7月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「玄恵」の意味・わかりやすい解説

玄恵
げんえ

[生]?
[没]正平5=観応1(1350).3.2. 京都
鎌倉時代末期~南北朝時代初期の天台宗の僧。「げんね」ともいい,「玄慧」とも書く。法印。号,独清軒。天台僧で禅門にも入り,京都北小路に住んだ。虎関師錬 (こかんしれん) の弟という。後醍醐天皇侍読朱子学の新注を取り入れ,宋学 (理学) を鼓吹した学者足利尊氏に用いられて『建武式目』の制定に参与。『庭訓往来』『秋の夜の長物語』『奥州後三年記』『太平記』や狂言などの作者と伝えられるが未詳

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朝日日本歴史人物事典 「玄恵」の解説

玄恵

没年:観応1/正平5.3.2(1350.4.9)
生年:生年不詳
南北朝期の天台宗の僧。玄慧とも書く。独清軒,健叟と号した。今川了俊の『難太平記』には,足利直義の前で恵鎮上人が持参した『太平記』を読んだとみえ,『太平記』の成立にかかわるとされる人物。『太平記』では,後醍醐天皇の倒幕のための無礼講に招かれて『昌黎文集』の談義を行い,足利尊氏に比叡山の開創の由来を物語って尊氏を説得,尊氏の庶子直冬を直義に引き合わせた話などがみえる。史実では元応1(1319)年に花園上皇の持明院殿の御所で『論語』談義を行うなど,漢学をもって持明院統に近侍し,建武3(1336)年11月の「建武式目」の起草にもかかわり,直義との交流が深かった。また南宋の魏慶之の『詩人玉屑』に加点するなど漢詩文に優れ,文人として名高かった。後世に宋学の権威とされるが,南朝との関係も含めて確かではない。

(土谷恵)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「玄恵」の解説

玄恵 げんえ

?-1350 鎌倉-南北朝時代の僧。
天台宗。一説に虎関師錬(こかん-しれん)の弟。宋(そう)学にも通じ,後醍醐(ごだいご)天皇にしばしば講義したといわれる。足利尊氏,直義(ただよし)の信任を得,「建武(けんむ)式目」の起草に関与した。「庭訓(ていきん)往来」「太平記」の編著者とつたえられる。観応(かんのう)元=正平(しょうへい)5年3月2日死去。号は独清軒,健叟。法名は玄慧ともかき,「げんね」ともよむ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「玄恵」の解説

玄恵
げんえ

?〜1350
南北朝時代の学僧
「玄慧」とも書く。京都の人。天台宗・禅宗・朱子学に通じ,後醍醐 (ごだいご) 天皇の討幕計画,建武の新政に加わり,のち足利尊氏の建武式目制定にも参画。また『太平記』『庭訓往来』など,玄恵に仮託される作品は多いが疑わしい。

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世界大百科事典(旧版)内の玄恵の言及

【玄慧】より

…鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で儒者。玄恵とも書き,〈げんね〉とも読む。号は独清軒(どくせいけん),健叟(けんそう)。…

※「玄恵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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