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玉城朝薫 たまぐすくちょうくん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

玉城朝薫
たまぐすくちょうくん

[生]貞享1(1684).琉球,首里
[没]享保19(1734)
琉球の代表的な宮廷舞踊家。玉城間切の惣地頭向 (しょう) 氏の家に生れた。唐名向受祐。薩摩藩や江戸幕府に対する琉球の慶賀使や謝恩使にたびたび随行して,日本文学に親しみ,能楽などの芸能を見聞,吸収した。

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デジタル大辞泉の解説

たまぐすく‐ちょうくん〔‐テウクン〕【玉城朝薫】

[1684~1734]琉球の官人・舞踊家。中国の冊封使(さくほうし)を歓待するため、踊奉行として組踊(くみおどり)を創作した。作品に組踊五番「執心鐘入」「二童敵討」「女物狂」「孝行の巻」「銘苅子(めかるしい)」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

玉城朝薫 たまぐすく-ちょうくん

1684-1734 琉球の舞踊家。
尚貞王16年8月2日生まれ。玉城間切(まぎり)の総地頭職をつぎ,王府につかえる。1718年踊奉行に再任され,組踊(くみおどり)を創始し,翌年清(しん)(中国)の冊封使歓迎の御冠船踊(おかんせんおどり)ではじめて演じた。創作した「二童敵討」「執心鐘入」「銘苅子(めかるしい)」「女物狂」「孝行の巻」を組踊五番という。尚敬王22年1月26日死去。51歳。唐名は向受祐(しょう-じゅゆう)。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

玉城朝薫

没年:尚敬22.1.26(1734.3.1)
生年:尚貞16.8.2(1684.9.10)
琉球王国の宮廷演劇「組踊」の大成者。唐名を向受祐という。王家の末裔で総地頭家に生まれる。幼少のころから母方の祖父野国正恒や義父の与儀守包から芸能の手ほどきを受ける。大和芸能にも優れ,島津吉貴の前で「東北」の仕舞「軒端の梅」を舞ったこともある。尚益1(1710)年の江戸上りの際は薩摩屋敷で現在の古典女踊り「かせかけ」に縁をひく「くりまえ踊り」を踊っている。尚敬6(1718)年,冊封使を歓待する踊奉行に任命され,翌年来琉した全魁や徐葆光らのために,琉球に在来する芸能や日本や中国の演劇を参考にして,新たに「組踊」という演劇を作り,王府が提供する7宴のうち第4宴の重陽宴以降,組踊「執心鐘入」や「二童敵討」以下「孝行の巻」「女物狂」「銘苅子」の5番を各宴で上演する。その後,冊封使渡来ごとに組踊を提供する例となる。朝薫によって始められた組踊は琉球の歴史に取材し,古典三線楽による歌と八八音対句または琉歌による韻文の詞章の唱えからなり,男,女,庶民,按司などで唱えが区別される。朝薫の5番は比較的に主題に変化がみられ,人間の普遍に迫るものが多いが,その後の組踊は,仇討物と孝行物がほとんどで,いわば儒教的な「忠」や「孝」を強調するものが多くなる。<参考文献>池宮正治『近世琉球の肖像』上

(池宮正治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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大辞林 第三版の解説

たまぐすくちょうくん【玉城朝薫】

1684~1734) 琉球の官人。薩摩や江戸で能・狂言・歌舞伎に接し、その形式を借りて琉球の伝説・史話を素材にした組踊りを創作。作「二童敵討にどうてきうち」「銘苅子めかるし」「執心鐘入しゆうしんかねいり」など。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

玉城朝薫
たまぐすくちょうくん
(1684―1734)

沖縄の楽劇「組踊(くみおどり)」の創始者、音楽家。貞享(じょうきょう)1年8月2日、首里儀保村(ぎぼむら)(現那覇市)で、玉城里之子朝致(さとのしちょうち)と章氏野国(しょううじのぐに)親方正恒(せいこう)の娘真鍋(まなべ)の長男として生まれる。生家は尚真王第3子今帰仁(なきじん)王子朝典(ちょうてん)を始祖とし、彼は10世にあたる。誕生後まもなく母は離別され、4歳のとき父が死去、その後は祖父の玉城親方朝恩(ちょうおん)に養育されたが、8歳のとき祖父も死亡、跡目を継いで玉城間切(まぎり)総地頭職、知行(ちぎょう)40石を授けられた。12歳で御書院小赤頭となって城中に出仕。20歳のおり美里(みさと)王子朝禎(ちょうてい)に従って薩摩(さつま)に上ったのを最初に、在職中に薩摩および江戸に7回の長期出張を行った。同時に芸術的才能にも恵まれて、多くの芸術作品の創造や継承に積極的に取り組んだ。
 1715年(正徳5)5月と18年(享保3)8月の2回踊奉行(ぶぎょう)に任じられたが、江戸や薩摩で見た浄瑠璃(じょうるり)や能狂言などの劇的構成と展開に魅せられた彼は、ここに組踊という沖縄独特の楽劇を創作した。19年の尚敬王冊封(さくほう)式典後の重陽(ちょうよう)の宴で演じられた組踊『二童敵討(にどうてきうち)』と『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』は、従来の単調な御冠船踊(おかんせんおどり)に一大変革をもたらした。続いて『銘苅子(めかるしい)』『女物狂(おんなものぐるい)』『孝行の巻』を書いて組踊を完成させた。また古典女踊を創作したといわれるが、これは伝承の域を出ていない。享保(きょうほう)19年1月26日没。[當間一郎]
『源武雄著「玉城朝薫」(『近世沖縄文化人列伝』所収・1969・沖縄タイムス文化事業局出版部)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の玉城朝薫の言及

【沖縄[県]】より

… 舞踊は16世紀ころ,宮廷奉仕の若衆(わかしゆ)(未成年男児)が新国王の冊封に来琉する明国の冊封使を饗応する宴席で,華麗な扮装で踊りを披露し,17世紀にも童児の群舞が行われた。冊封使饗応の宴は宮廷最大の行事で,宴に披露する歌舞を企画・制作するのに高官の中から躍(おどり)奉行を選び,数年前から準備,稽古に入る慣行であったが,1719年,尚敬王冊封のときに躍奉行に選ばれた玉城朝薫(たまぐすくちようくん)(1684‐1734)は,従来の舞踊にかえて,三線を伴奏にしながら歌とせりふで物語を展開する組踊と称する歌舞劇を創作して上演した。これが評判をえて,以後組踊が歴代創作されるようになったが,また彼は三線歌曲を伴奏にした舞踊を振付けし,のちの宮廷舞踊の基礎を固めた。…

【組踊】より

…18世紀に中国からの冊封使を歓待するために宮廷で踊られた,冠船踊の一種。時の躍奉行(おどりぶぎよう)であった玉城朝薫(たまぐすくちようくん)(1684‐1734)によって作られた。琉球の古事を題材にしてこれを歌謡と舞踊で構成するが,日本の能楽や歌舞伎の影響もみられる歌舞劇となっている。…

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