沖縄の楽劇「組踊(くみおどり)」の創始者、音楽家。貞享(じょうきょう)1年8月2日、首里儀保村(ぎぼむら)(現那覇市)で、玉城里之子朝致(さとのしちょうち)と章氏野国(しょううじのぐに)親方正恒(せいこう)の娘真鍋(まなべ)の長男として生まれる。生家は尚真王第3子今帰仁(なきじん)王子朝典(ちょうてん)を始祖とし、彼は10世にあたる。誕生後まもなく母は離別され、4歳のとき父が死去、その後は祖父の玉城親方朝恩(ちょうおん)に養育されたが、8歳のとき祖父も死亡、跡目を継いで玉城間切(まぎり)総地頭職、知行(ちぎょう)40石を授けられた。12歳で御書院小赤頭となって城中に出仕。20歳のおり美里(みさと)王子朝禎(ちょうてい)に従って薩摩(さつま)に上ったのを最初に、在職中に薩摩および江戸に7回の長期出張を行った。同時に芸術的才能にも恵まれて、多くの芸術作品の創造や継承に積極的に取り組んだ。
1715年(正徳5)5月と18年(享保3)8月の2回踊奉行(ぶぎょう)に任じられたが、江戸や薩摩で見た浄瑠璃(じょうるり)や能狂言などの劇的構成と展開に魅せられた彼は、ここに組踊という沖縄独特の楽劇を創作した。19年の尚敬王冊封(さくほう)式典後の重陽(ちょうよう)の宴で演じられた組踊『二童敵討(にどうてきうち)』と『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』は、従来の単調な御冠船踊(おかんせんおどり)に一大変革をもたらした。続いて『銘苅子(めかるしい)』『女物狂(おんなものぐるい)』『孝行の巻』を書いて組踊を完成させた。また古典女踊を創作したといわれるが、これは伝承の域を出ていない。享保(きょうほう)19年1月26日没。
[當間一郎]
『源武雄著「玉城朝薫」(『近世沖縄文化人列伝』所収・1969・沖縄タイムス文化事業局出版部)』
(池宮正治)
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… 舞踊は16世紀ころ,宮廷奉仕の若衆(わかしゆ)(未成年男児)が新国王の冊封に来琉する明国の冊封使を饗応する宴席で,華麗な扮装で踊りを披露し,17世紀にも童児の群舞が行われた。冊封使饗応の宴は宮廷最大の行事で,宴に披露する歌舞を企画・制作するのに高官の中から躍(おどり)奉行を選び,数年前から準備,稽古に入る慣行であったが,1719年,尚敬王冊封のときに躍奉行に選ばれた玉城朝薫(たまぐすくちようくん)(1684‐1734)は,従来の舞踊にかえて,三線を伴奏にしながら歌とせりふで物語を展開する組踊と称する歌舞劇を創作して上演した。これが評判をえて,以後組踊が歴代創作されるようになったが,また彼は三線歌曲を伴奏にした舞踊を振付けし,のちの宮廷舞踊の基礎を固めた。…
…18世紀に中国からの冊封使を歓待するために宮廷で踊られた,冠船踊の一種。時の躍奉行(おどりぶぎよう)であった玉城朝薫(たまぐすくちようくん)(1684‐1734)によって作られた。琉球の古事を題材にしてこれを歌謡と舞踊で構成するが,日本の能楽や歌舞伎の影響もみられる歌舞劇となっている。…
※「玉城朝薫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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