田辺城(読み)たなべじよう

日本歴史地名大系 「田辺城」の解説

田辺城
たなべじよう

東の伊佐津いさづ川と西の高野たかの川とに挟まり、田辺城下のほぼ南西部にある。城型が南北に長く平地にくっきりと城郭が浮ぶ格好で、東の白鳥しらとり峠からこれを眺めるとあたかも鶴が舞っている姿に似ていたので別名舞鶴城ともいわれた。

天正八年(一五八〇)丹後に入国した細川藤孝・忠興父子は宮津城築城に着手すると同時に藤孝の隠居城として田辺城の築城に着手したといわれ、同一一―一二年頃に完成したとみられる。成立年次は不詳だが、細川氏時代を描いたと考えられる田辺御城図(「田辺旧記」所収)によれば、天守台・本丸を中心に北に二の丸・三の丸があり、城門は本丸の南方に大手、三の丸の西方搦手がある。城郭の北に舞鶴湾(西湾)、南に沼地、東西に川が流れる自然の要害地であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本の城がわかる事典 「田辺城」の解説

たなべじょう【田辺城〈和歌山県〉】

和歌山県田辺市上屋敷にあった平城(ひらじろ)(水城(みずじろ))。江戸時代に築城された陣屋造りの城。田辺城は天守閣がなく、典型的な水城である。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長(ゆきなが)が紀伊国に入国し、田辺には重臣浅野氏重が入り湊(みなと)城を築いたが、1615年(元和1)の一国一城令の後、陣屋に改築された。1619年(元和5)、浅野氏は安芸国(広島県)に国替えとなり、紀伊国には徳川頼宣(よりのぶ)が入国した。田辺には付家老(つけがろう)安藤直次(なおつぐ)が入封し、湊城を改築して田辺城を築いた。田辺城は陣屋構えで、天守や櫓(やぐら)はなかった。以後、安藤氏が代々紀伊徳川家筆頭家老として居城した。明治維新後に廃城となり、城は取り壊された。錦水公園一帯が城跡で、田辺城唯一の遺構水門がある。JR紀勢本線紀伊田辺駅から徒歩20分。◇錦水(きんすい)城、湊城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の田辺城の言及

【田辺[市]】より

…1619年(元和5)徳川頼宣が紀州藩主となると,田辺には付家老安藤直次(3万8000石)が配されて新宮とともに支藩的存在となり,実質的には城下町であった(正式に田辺藩となるのは1868年)。田辺城は会津川河口左岸にあり,海辺に位置するため,幕末に海岸警備が強化された際には二丸近くに台場が築かれた。田辺の名産は栩塗細工,炭,蓬萊酒,晒葛,蜂蜜などであったが,今日も珍重される備長(びんちよう)炭は田辺の炭問屋備中屋長左衛門が江戸や大坂に売りひろめたものとも伝え,秋津川には備長炭製炭創始者という吉三をたたえる盆踊歌が伝わる。…

※「田辺城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android