男伊達(おとこだて)、かぶき者ともいう。江戸初期、江戸市中を横行した遊侠(ゆうきょう)無頼の徒。大坂落城後、元和偃武(げんなえんぶ)の時代となり、幕府の政策に不平を抱き反抗して出現した旗本奴が、偏狭な異装で市中を闊歩(かっぽ)し横暴なふるまいをした。とくに17世紀中ごろ、旗本奴が多くの組をつくり、水野十郎左衛門を首領として庶民に乱暴狼藉(ろうぜき)を行ったことは有名。これらの暴虐行為に対抗するため町人の味方として発生し、庶民擁護のため活躍したのが町奴である。「弱きを扶(たす)け強きを挫(くじ)く」の標語に従い、仁侠(にんきょう)のために働いた。始祖は幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)で、旗本奴の首領水野と激しく対立抗争した。これが侠客の初めとされる。
大勢の人夫を抱えていて、武家への人入れ業を行ったが、そのためには統率できる器量が必要で、義理人情に厚く、約束を重んじ節操を尊び、頼まれれば命を捨てても顧みざる気概をもつことを誇りとした。そのほかに町家の用心棒、喧嘩(けんか)の仲裁などの役割も果たした。しかし多くは定職がなく、博奕(ばくち)と喧嘩を事として、遊里や芝居町を徘徊(はいかい)する無頼の一面をもっていた。旗本奴の風俗をまねて、はでに抜きあげた額(ひたい)や、紅絹裏(もみうら)の裾(すそ)のはねる着物、六方詞(ことば)という独特のことばを使い、良民を苦しめることもあるので、庶民から敬遠されたりもした。これらの弊害のため、幕府も本腰を入れて江戸市中の治安を整えるべく、1654年(承応3)からたびたび町奴の掃討に乗り出し、1686年(貞享3)の大検挙により町奴の姿は消えた。
[稲垣史生]
江戸前期,都市住民で異装をし盟約を結んで徒党を組み,無頼の生活を送った者をいう。旗本奴と合わせて〈かぶき者〉などといわれた。近世に入り京都,大坂,ついで江戸など都市が繁栄すると,そこにかぶき者が横行し,彼らは社会の秩序を乱す者として取締りの対象となった。1609年(慶長14)には京都で荆組,皮袴組の者が逮捕されその頭株は処刑された。48年(慶安1)には異装をし長刀を差すことが禁止され,以降たびたび同趣旨の触が出されている。この触は2月の奉公人出替りの時期に発表されているが,旗本奴,町奴が武家奉公人とそれにかかわる者に多かった理由による。幡随院長兵衛は町奴の頭領といわれ,旗本奴の水野十郎左衛門と争い,57年(明暦3)殺害された。その子分といわれる唐犬権兵衛も著名である。彼らについては随筆類に記述があり,中期以降歌舞伎などにも多く取り上げられているが,実体から離れ美化されているものが多い。
執筆者:林 亮勝
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江戸前期,かぶき者のうち武家奉公人などの斡旋や日用の請負を業とする町方の口入れ・請負業者や牢人者など。町奴も旗本奴同様,唐犬(とうけん)組・笊籬(ざる)組などの組を結成し,意地の張り合いや縄張りをめぐって集団的抗争をおこした。町奴の代表としては唐犬権兵衛や放駒四郎兵衛のほか,1657年(明暦3)に旗本奴との抗争で殺害された幡随院(ばんずいいん)長兵衛が有名。幕府は民衆統制の強化をはかるため,彼らの行為を町触などできびしく取り締まった。
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…彼らは〈かぶき者〉と呼ばれたように異様な風体で,庶民には迷惑な存在だった。旗本奴に対抗し町奴(まちやつこ)も賭博を日常とした者が多かった。治安対策上,彼らは1657年(明暦3)から86年(貞享3)にかけて弾圧され,ほぼ消滅してしまった。…
…江戸前期,江戸で名のあった町奴(まちやつこ)。〈町六法ノ頭取イタシ候者〉(《承寛襍録》)と表現しているものもある。…
※「町奴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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