デジタル大辞泉
「新門辰五郎」の意味・読み・例文・類語
しんもん‐たつごろう〔‐たつゴラウ〕【新門辰五郎】
[1800~1875]江戸末期の侠客。江戸の人。浅草寺に新設された門の番人となり、新門辰五郎とよばれた。火消し人足から町火消し十番組の頭となり、のち、徳川慶喜に重用され、その身辺警護にあたった。
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しんもん‐たつごろう‥たつゴラウ【新門辰五郎】
- 江戸末期の侠客、町火消。江戸下谷のかざり職人中村金八の長男。浅草寺新門番、町田仁右衛門の養子となる。町火消十番組の頭として活躍。後に一五代将軍慶喜の寵を受けた。寛政一二~明治八年(一八〇〇‐七五)
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新門辰五郎(しんもんたつごろう)
しんもんたつごろう
(1800―1875)
江戸末期の町火消(まちびけし)、侠客(きょうかく)。江戸・下谷(したや)生まれ。上野輪王寺(りんのうじ)に仕える町田家の女婿(じょせい)となり、浅草寺(せんそうじ)に新設の門の番人となり新門を名のる。辰五郎は町火消十番組の頭取と浅草奥山の香具師(やし)・大道商人の取締りを兼ねる侠客で、大名火消との喧嘩(けんか)がもとで捕らえられ、佃島(つくだじま)に送られた。獄中で1846年(弘化3)正月の江戸大火にあい、囚人を指揮して消火に大活躍し、特赦された。1862年(文久2)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の上京に随行し、よく警護の任を果たした。明治8年9月19日、浅草馬道の自宅で没した。享年76歳。板橋の盛雲寺に葬る。
[比留間尚]
『林和著『実説江戸侠客伝』(1935・日本公論社)』▽『田村栄太郎著『やくざ考』(1958・雄山閣出版)』
新門辰五郎(しんもんのたつごろう)
しんもんのたつごろう
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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新門辰五郎 (しんもんたつごろう)
生没年:1800-75(寛政12-明治8)
幕末の江戸町火消で俠客。錺(かざり)職人の家に生まれ,浅草寺新門の衛士となったことから名とした。有馬家の火消とけんかして入獄,1846年(弘化3)江戸大火に一時釈放されて消防に大活躍し赦免された。俠名が高まると幕府の旗下に登用され,子分300人を率いて市中警備に当たった。62年(文久2)一橋慶喜に従って上京し禁裏を警衛,68年慶喜が急に大坂城を退去するとき,置き忘れた金扇馬印を決死で取りに戻り,軍艦の出航に遅れたので東海道を20余人と走り下った。維新後は浅草に住み観音信仰に専念した。
執筆者:北原 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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新門辰五郎 しんもん-たつごろう
1800-1875 江戸後期-明治時代の侠客(きょうかく)。
寛政12年生まれ。江戸浅草(せんそう)寺の新門警備の任にあたったのでこの名でよばれ,町火消十番組の頭となる。弘化(こうか)2年大名火消とあらそい,佃島に入牢。元治(げんじ)元年(1864)一橋慶喜(よしのぶ)の京都ゆきに子分をひきつれ随行。以後,慶喜に重用され,水戸,駿府(すんぷ)にもしたがった。明治8年9月19日死去。76歳。江戸出身。姓は町田。
【格言など】思ひおく鮪(まぐろ)の刺身鰒汁(ふぐとじる)ふつくりぼぼにどぶろくの味(辞世)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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新門辰五郎
しんもんたつごろう
[生]寛政12(1800)
[没]1875
江戸時代末期の町火消,侠客として著名。明治維新前後幕府側について活躍した。真山青果作の戯曲『新門辰五郎』 (1943初演) などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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新門辰五郎
しんもんたつごろう
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 補作者
- 竹柴古芝
- 初演
- 明治34.3(東京・宮戸座)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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