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水野十郎左衛門 みずのじゅうろうざえもん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

水野十郎左衛門
みずのじゅうろうざえもん

[生]?
[没]寛文4(1664).3.27. 江戸
江戸幕府の旗本。福山城主水野勝成の孫。名,成之。 3000石を領した。旗本奴の大小神祇組の首領として無頼の生活を送った。明暦3 (1657) 年町奴幡随院長兵衛と争ってこれを殺害。のち幕府にその所業をとがめられて切腹。これは歌舞伎などの題材となった。

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デジタル大辞泉の解説

みずの‐じゅうろうざえもん〔みづのジフラウザヱモン〕【水野十郎左衛門】

[?~1664]江戸初期の旗本。名は成之。3千石の家督を継いだが、旗本奴の頭目として無頼の生活を送り、町奴の幡随院長兵衛を殺害。のち、行状粗暴のかどで切腹させられた。

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百科事典マイペディアの解説

水野十郎左衛門【みずのじゅうろうざえもん】

江戸前期の旗本。旗本奴,名は成之(なりゆき)。町奴幡随院長兵衛と争い殺害したことで有名。父成貞は水野氏宗家備後(びんご)福山藩主水野勝成の三男。父の死後1650年に家を継ぎ小普請となったが勤めを怠り,旗本奴の集まり大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)の頭領として無頼(ぶらい)の生活を送った。
→関連項目旗本奴

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

水野十郎左衛門 みずの-じゅうろうざえもん

?-1664 江戸時代前期の武士。
水野勝成の孫。水野成貞の子。3000石の幕臣で,旗本奴(やっこ)の大小神祇(じんぎ)組首領。町奴の幡随院(ばんずいいん)長兵衛を殺したことで有名。不行跡のかどで評定所によびだされた際,髪をゆわず袴(はかま)もつけずに出頭し,不敬の罪で寛文4年3月27日切腹。家は断絶。名は成之(なりゆき)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

水野十郎左衛門

没年:寛文4.3.27(1664.4.23)
生年:生年不詳
江戸前期の旗本奴。父の水野成貞は備後福山藩主水野勝成の3男,母は蜂須賀氏。名は貞義,のち成之。十郎左衛門は通称。徳川譜代の名門旗本で,小普請組で3000石。病を称して出仕せず,旗本奴「大小神祇組」の首領として異様な風体で盛り場を横行,町奴と争いを重ねた末,町奴の頭の幡随院長兵衛を自邸で殺すがお咎めなし。しかし,その後も不法がやまず遂に幕府評定所に呼び出されたが,髪も結わず白衣で出頭。これが不敬とされ翌日切腹,家は断絶となる。一説では時に52歳。太平の世になじめぬ無頼漢だが,父の成貞も若いときは「かぶき者」として聞こえたというから,不良の血筋は半端ではなかったようだ。

(吉沢敬)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

みずのじゅうろうざえもん【水野十郎左衛門】

?‐1664(寛文4)
江戸前期の旗本。町奴幡随院長兵衛と対抗した旗本奴の頭目として喧伝されている。幼名百助,はじめ貞義と名のったが,のち成之(なりゆき)と改めた。十郎左衛門は通称。父成貞は水野氏宗家の備後福山藩主勝成の三男で,分家して3000石が与えられた。母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮(よししげ)の女。十郎左衛門はその嫡子で,父の没後,1650年(慶安3)家を相続し,小普請となったが,病気と称して勤めを怠り,無頼の生活を送った。

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大辞林 第三版の解説

みずのじゅうろうざえもん【水野十郎左衛門】

?~1664) 江戸初期の旗本。江戸の人。旗本奴やつこ、神祇組の頭目となり、町奴の幡随院ばんずいいん長兵衛と争って、これを殺す。1664年切腹。これを脚色したものに歌舞伎「極付幡随長兵衛きわめつきばんずいちようべえ」などがある。 → 湯殿の長兵衛

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

水野十郎左衛門
みずのじゅうろうざえもん
(?―1664)

江戸前期、「旗本奴(はたもとやっこ)」の頭目。名は成之(なりゆき)。徳川氏の譜代(ふだい)水野氏の一族で上総(かずさ)国(千葉県)に3000石の知行(ちぎょう)をもつ。旗本奴の群に投じ大小神祇組(じんぎぐみ)の首領となる。当時、江戸で人気の町奴(まちやっこ)幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)を謀殺した事件で有名となり、錦絵(にしきえ)が残っている。その一件は、芝居見物中の喧嘩(けんか)で長兵衛が十郎左衛門配下の旗本奴を打ち負かしたのを恨みに思い、復讐(ふくしゅう)したものといわれる。幕府側の公式記録によれば、1657年(明暦3)7月29日、十郎左衛門は男達(おとこだて)幡随院長兵衛を討ち捨てた旨を老中に届け出たが、長兵衛が浪人者ということで無罪となった。しかしその後も市中で乱暴を働くので徳島藩主松平(蜂須賀(はちすか))光隆(みつたか)に預けられ、64年(寛文4)3月27日、評定所(ひょうじょうしょ)での尋問の際、「被髪白衣」の異様な風体が不敬であるとされ切腹を命ぜられ、翌28日、子百助(ももすけ)も父の罪で処刑された。[煎本増夫]

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