水野十郎左衛門(読み)ミズノジュウロウザエモン

デジタル大辞泉 「水野十郎左衛門」の意味・読み・例文・類語

みずの‐じゅうろうざえもん〔みづのジフラウザヱモン〕【水野十郎左衛門】

[?~1664]江戸初期の旗本。名は成之。3千石の家督を継いだが、旗本奴の頭目として無頼の生活を送り、町奴幡随院長兵衛殺害。のち、行状粗暴のかどで切腹させられた。

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精選版 日本国語大辞典 「水野十郎左衛門」の意味・読み・例文・類語

みずの‐じゅうろうざえもん【水野十郎左衛門】

江戸初期の旗本。名は成之。出雲守水野成貞の長子。旗本奴大小神祇組の頭領として江戸市中横行、町奴幡随院長兵衛と争ってこれを殺す。行状粗暴をもって切腹を命ぜられた。寛文四年(一六六四)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「水野十郎左衛門」の意味・わかりやすい解説

水野十郎左衛門 (みずのじゅうろうざえもん)
生没年:?-1664(寛文4)

江戸前期の旗本。町奴幡随院長兵衛と対抗した旗本奴の頭目として喧伝されている。幼名百助,はじめ貞義と名のったが,のち成之(なりゆき)と改めた。十郎左衛門は通称。父成貞は水野氏宗家の備後福山藩主勝成の三男で,分家して3000石が与えられた。母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮(よししげ)の女。十郎左衛門はその嫡子で,父の没後,1650年(慶安3)家を相続し,小普請となったが,病気と称して勤めを怠り,無頼の生活を送った。旗本奴の集りである大小神祇組の頭目だったといわれる。57年(明暦3)7月,幡随院長兵衛を殺害したが,そのときはとがめはなかった。その後,幕府はかぶき者の取締りを強化していき,64年(寛文4)3月,彼も不行跡を理由に母の実家徳島藩に預けの下命を評定所で受けた。しかしそのときの態度が不作法であったとして,翌日改めて切腹に処された。彼の子も殺害されている。
執筆者: 実録本《幡随院長兵衛一代記》(成立年未詳)によれば,水野は吉原での遊興席上,幡随院長兵衛によって恥辱をうけ,これがきっかけで遺恨を含み,さらに木挽町の芝居で恥をかかされ,ついに自邸に招き寄せ,湯殿で殺害したことになっている。この経緯では水野はむしろ同情されてよいはずだが,江戸町民は旗本奴の暴虐を憎んで長兵衛に同情を寄せた。初世桜田治助作の《幡随長兵衛精進俎板(しようじんまないた)》(1803年8月,中村座初演)では,水野は〈白柄組の寺西閑心〉の名に仮託,純然たる敵役として描かれた。河竹黙阿弥作《極付(きわめつき)幡随長兵衛》でも,初演時(1881年10月,春木座)にははばかるところがあってか,〈水尾十郎左衛門〉の名で登場,殿様役者として名高い市川権十郎が演じたが,やはり敵役の性格は失われていない。岡本綺堂作《水野十郎左衛門》(1927年6月,歌舞伎座初演)では水野は長兵衛の墓参りをして己の所業を恥じ,また同時に闊達な人物として描かれ,2世市川左団次が演じて近代的性格が付与された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「水野十郎左衛門」の意味・わかりやすい解説

水野十郎左衛門
みずのじゅうろうざえもん
(?―1664)

江戸前期、「旗本奴(はたもとやっこ)」の頭目。名は成之(なりゆき)。徳川氏の譜代(ふだい)水野氏の一族で上総(かずさ)国(千葉県)に3000石の知行(ちぎょう)をもつ。旗本奴の群に投じ大小神祇組(じんぎぐみ)の首領となる。当時、江戸で人気の町奴(まちやっこ)幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)を謀殺した事件で有名となり、錦絵(にしきえ)が残っている。その一件は、芝居見物中の喧嘩(けんか)で長兵衛が十郎左衛門配下の旗本奴を打ち負かしたのを恨みに思い、復讐(ふくしゅう)したものといわれる。幕府側の公式記録によれば、1657年(明暦3)7月29日、十郎左衛門は男達(おとこだて)幡随院長兵衛を討ち捨てた旨を老中に届け出たが、長兵衛が浪人者ということで無罪となった。しかしその後も市中で乱暴を働くので徳島藩主松平(蜂須賀(はちすか))光隆(みつたか)に預けられ、64年(寛文4)3月27日、評定所(ひょうじょうしょ)での尋問の際、「被髪白衣」の異様な風体が不敬であるとされ切腹を命ぜられ、翌28日、子百助(ももすけ)も父の罪で処刑された。

[煎本増夫]

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百科事典マイペディア 「水野十郎左衛門」の意味・わかりやすい解説

水野十郎左衛門【みずのじゅうろうざえもん】

江戸前期の旗本。旗本奴,名は成之(なりゆき)。町奴幡随院長兵衛と争い殺害したことで有名。父成貞は水野氏宗家備後(びんご)福山藩主水野勝成の三男。父の死後1650年に家を継ぎ小普請となったが勤めを怠り,旗本奴の集まり大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)の頭領として無頼(ぶらい)の生活を送った。幕府の〈かぶき者〉取締強化によって1664年切腹。
→関連項目旗本奴

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朝日日本歴史人物事典 「水野十郎左衛門」の解説

水野十郎左衛門

没年:寛文4.3.27(1664.4.23)
生年:生年不詳
江戸前期の旗本奴。父の水野成貞は備後福山藩主水野勝成の3男,母は蜂須賀氏。名は貞義,のち成之。十郎左衛門は通称。徳川譜代の名門旗本で,小普請組で3000石。病を称して出仕せず,旗本奴「大小神祇組」の首領として異様な風体で盛り場を横行,町奴と争いを重ねた末,町奴の頭の幡随院長兵衛を自邸で殺すがお咎めなし。しかし,その後も不法がやまず遂に幕府評定所に呼び出されたが,髪も結わず白衣で出頭。これが不敬とされ翌日切腹,家は断絶となる。一説では時に52歳。太平の世になじめぬ無頼漢だが,父の成貞も若いときは「かぶき者」として聞こえたというから,不良の血筋は半端ではなかったようだ。

(吉沢敬)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水野十郎左衛門」の意味・わかりやすい解説

水野十郎左衛門
みずのじゅうろうざえもん

[生]?
[没]寛文4(1664).3.27. 江戸
江戸幕府の旗本。福山城主水野勝成の孫。名,成之。 3000石を領した。旗本奴の大小神祇組の首領として無頼の生活を送った。明暦3 (1657) 年町奴幡随院長兵衛と争ってこれを殺害。のち幕府にその所業をとがめられて切腹。これは歌舞伎などの題材となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野十郎左衛門」の解説

水野十郎左衛門 みずの-じゅうろうざえもん

?-1664 江戸時代前期の武士。
水野勝成の孫。水野成貞の子。3000石の幕臣で,旗本奴(やっこ)の大小神祇(じんぎ)組首領。町奴の幡随院(ばんずいいん)長兵衛を殺したことで有名。不行跡のかどで評定所によびだされた際,髪をゆわず袴(はかま)もつけずに出頭し,不敬の罪で寛文4年3月27日切腹。家は断絶。名は成之(なりゆき)。

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