江戸前期,旗本・御家人あるいはその奉公人で,異装をし仲間で盟約を交わして徒党を組み,無頼の生活を送った者をいう。旗本奴に対抗したという町奴を含めて〈かぶき者〉などといわれた。戦国の遺風によるとか,勲功に比して小禄に甘んじなければならなかった直参譜代の者の不満のはけ口であったなどといわれるが,その多くは旗本に奉公する中小性・若党など身分の低い者であった。幕府はその禁圧に努め1612年(慶長17)には大鳥居逸兵衛らを逮捕して処刑している。その党類は江戸に300人ほどいるとした記録もある。この後も取締りの触が出され,旗本やその奉公人で無頼の行状をとがめられ処罰された者は多い。1652年(承応1)の触では,中小性より下の者で,ビロードを着し髪を大なでつけにし大髷で,大刀,大脇差を差して横行するものを対象としている。1664年(寛文4)に処刑された水野十郎左衛門成之は旗本奴として著名。
執筆者:林 亮勝
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戦乱も治まり、徳川幕藩体制が確立に向かう元和(げんな)・寛永(かんえい)(1615~44)のころ、旗本無頼の徒が巷(ちまた)を横行した。戦国の遺風が強く残り、殺伐で武張(ぶば)ったことを好んだ。これを旗本奴という。正保(しょうほう)(1644~48)ごろから全盛になり、白柄(しらつか)組、六法組、大小神祇(しんぎ)組、鶺鴒(せきれい)組などという団体をつくった。人の目にたつような異装、奇行を競い、大仰な髪形にビロード襟のはでな着物、大鍔(おおつば)に無反(むそり)の長刀を閂差(かんぬきざ)しにして、手足を振り上げて闊歩(かっぽ)した。真夏に綿入れを着て「寒い寒い」と火桶(ひおけ)を抱え、寒中に帷子(かたびら)だけで「暑い暑い」と扇子を使う天邪鬼(あまのじゃく)ぶりをみせた。特権をかさに着て傍若無人のふるまいが多く、博奕(ばくち)、喧嘩(けんか)、辻斬(つじぎ)りなどの狼藉(ろうぜき)を働き、遊廓(ゆうかく)を根城とした。そのため社会の反感を買った。幕府は平和政策上たびたび彼らに弾圧を加え、1664年(寛文4)首領の水野十郎左衛門に切腹を命じ、86年(貞享3)に200人余を捕らえて処罰ののちは、暴虐な旗本奴も自然に消滅した。
[稲垣史生]
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江戸前期,かぶき者のうち旗本・御家人などからなる者をさす。本来かぶき者の中心は武家奉公人などだったが,しだいに彼らを雇用する主人の側にもその風俗が拡大していった。旗本奴の大半は中下層の幕臣だが,加々爪(かがづめ)直澄・坂部三十郎・水野成之のように大名や上級旗本も含まれていた。鶺鴒(せきれい)組・吉屋組・白柄(しらつか)組・大小神祇組などの組を結成して,面子や意地を競い合うなど,幕府による旗本統制の強化に反発した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中世には博打(ばくち)がいるが,江戸時代には賭博者の集団である博徒が多数生まれた。
[都市博徒]
江戸時代の初期に賭博常習者として知られているものは旗本,御家人,浪人からなる旗本奴(はたもとやつこ)の一団である。彼らは〈かぶき者〉と呼ばれたように異様な風体で,庶民には迷惑な存在だった。…
※「旗本奴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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