小説家。釜山(ふざん/プサン)生まれ。第二次世界大戦終結まで同地で過ごす。戦後は東京で過ごした一時期を除いて、佐世保(させぼ)、福岡に住む。小学校時代から講談、冒険物語、伝奇小説などを耽読(たんどく)し、自分でも小説らしきものを書き始める。初めて書いた小説「目明かし神吉捕物帖」は挿絵も自分で描いて友人たちに回覧させたという。はっきりと小説家を志したのは高校時代からで、雑誌の懸賞小説に次々と投稿する。1954年(昭和29)早稲田大学政治経済学部卒業後、一時期サラリーマン生活を送るが、退職して帰郷、父親の経理事務所を手伝いながら創作に励んだ。55年地方新聞の懸賞小説に「臆病武者」が一席入選。57年『講談倶楽部(クラブ)』賞に応募した「みかん」が最終候補に残り、山岡荘八奨励賞を受ける。続いて翌58年には「雑兵」で『講談倶楽部』賞を受賞。以降作家活動に専念し『講談倶楽部』を中心に作品を発表するが、62年12月号で同誌が休刊となってからはNHK(福岡)のラジオ・ドラマ台本を書いたり、地元紙『夕刊フクニチ』に連載小説を書くなど活躍の場を広げていく。
白石の名が広く知られるようになるのは、その作品が相次いで直木賞にノミネートされてからである。まず1970年に「孤島の騎士」が候補となり、74年には『火炎城』が、75年にも「一炊の夢」「幻島記」が最終候補となるが、惜しくも受賞は逸する。さらに、80年には『サムライの海』が、82年には「島原大変」、84年には「海賊たちの城」が候補にあげられながら、無念の涙をのむ。そして87年実に8回目の候補となった『海狼伝』でついに第97回直木賞を受賞する。
選考委員の田辺聖子は、選評のなかで「読み終えて潮の匂いをかぎ、海鳴りの音を聞き、浪のしぶきが顔にあたるのを感じた」と記して、迫力と臨場感のある白石の作品を絶賛したが、彼は一貫して海と日本人の関係を意識してきた作家であった。九州の、それも海のそばを離れることなく住み続けてきた白石は、周囲に広がる海への関心がひときわ強かった。
『海狼伝』も、時代小説には珍しい、海賊を主人公にした本格的な海洋冒険小説であるが、海賊は陸の武士たちに比して後世に残る文書や史料がきわめて少なかったと述懐する。そうした事実について白石は、徳川300年の鎖国主義の弊害が、海への関心を人々の心から削ぎ取ったためかもしれないと述べた。「江戸時代以前とそれ以後の日本人は、海の彼方への好奇心や冒険心が違う。江戸以前ははるかに生き生きとしていた。海外に渡った者は戻れば死罪という時代が長く続き、海を嫌うということが伝統になり、国民性にまで及んだのではないか」と主張した。
その後も筆の勢いが衰えることはなく1992年(平成4)『戦鬼たちの海』で柴田錬三郎賞、99年『怒濤のごとく』で吉川英治文学賞を受賞。日本の海洋時代小説の第一人者としての地位を磐石(ばんじゃく)のものとした。
[関口苑生]
『『島原大変』(1985・文芸春秋)』▽『『海狼伝』(1987・文芸春秋)』▽『『火炎城』(講談社文庫)』▽『『幻島記』『サムライの海』『戦鬼たちの海』『怒濤のごとく』(文春文庫)』
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