百花斉放百家争鳴(読み)ひゃっかせいほうひゃっかそうめい(その他表記)Bai-hua qi-fang bai-jia zheng-ming

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「百花斉放百家争鳴」の意味・わかりやすい解説

百花斉放百家争鳴
ひゃっかせいほうひゃっかそうめい
Bai-hua qi-fang bai-jia zheng-ming

1956~57年初頭,中国共産党提唱した学問思想,文化,芸術などの各分野における自由な発言を奨励した「上からの自由化」運動。 56年5月2日毛沢東が最高国務会議で,共産党と民主諸党派との「長期共存,相互監督」を提唱。次いで5月 26日党宣伝部長陸定一が,党内外の自然科学者,社会科学者,文芸活動家を集めた科学文化工作者会議で「百花斉放百家争鳴」を呼びかけ,(1) 学術の発展のための自由な討論創作批評意見発表の自由の保障,(2) 文化,芸術と政治を同一視する偏向排除,(3) 思想問題を行政命令式に解決することの回避などを主張した。9月の八全大会においても劉少奇副主席が政治報告のなかで,科学と芸術の発展のためには,「百花斉放百家争鳴」の方針によって自由に論議し合い,自由に競い合うことが必要であり,行政上の命令によって指導を行うべきではないと述べた。毛沢東も 57年2月 27日の最高国務会議における講演「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」のなかでこの方針に触れており,3月 12日の全国宣伝工作会議における講話でも,「大胆に発言し,批判し,論争し,まちがった議論を恐れず,毒素を含んだものを恐れず,相互の論争と批判を活発にすること」を強調。この運動は民主諸党派や党内外の知識分子の不満や要求を自由に表明させることによって,党が官僚主義セクト主義,主観主義に陥ることを防ぐためであるとされたが,運動が拡大して共産党批判が激しくなったため,6月以後党指導部によって反右派闘争が始り,運動は終息させられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「百花斉放百家争鳴」の意味・わかりやすい解説

百花斉放・百家争鳴
ひゃっかせいほうひゃっかそうめい

中華人民共和国における文芸、思想、学術上の政策的スローガン。建国後の社会主義改造の過程で、胡風(こふう)批判などのブルジョア思想批判キャンペーンのために萎縮(いしゅく)していた知識人の活動を積極化させようとして打ち出された。中国文化の花開いた春秋戦国時代の諸子百家の自由な言論活動になぞらえて毛沢東(もうたくとう)が提唱したといわれているが、1956年5月には中国共産党宣伝部長・陸定一が「百花斉放・百家争鳴」と題して講演、知識人の自由な発言を呼びかけた。知識人の反応は当初きわめて消極的であったが、翌57年5月、「言者無罪」(なにを言っても罪にならない)との方針に促されて一斉に発言し始め、中国共産党へのさまざまな批判が続出した。ところが、これらの発言は「右派」分子による反党・反社会主義の「毒草」であるとされ、57年6月、急遽(きゅうきょ)「反右派闘争」が展開された。

 今日でも「百花斉放・百家争鳴」はしばしば唱えられているが、1986年末に民主化運動がふたたび抑えられたように、むなしい政治的スローガンに堕してしまっている。

[中嶋嶺雄]

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旺文社世界史事典 三訂版 「百花斉放百家争鳴」の解説

百花斉放・百家争鳴
ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい

1956年,中国共産党が知識人らに自由な意見の発表を求めた際のスローガン
毛沢東の提起にもとづいて,中央宣伝部長の陸定一が言論の自由を呼びかけた。初めは警戒して発言を控えていた知識人らも,毛沢東の再三にわたる要請により,1957年春より爆発的に中国共産党の独裁政治や経済政策に対する批判を行った。これに危機感を抱いた毛沢東らは,一転して知識人らを弾圧する反右派闘争を開始した。

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