能の曲名。四番目物。現在物。観世元雅(もとまさ)作。シテは主馬盛久(しゆめのもりひさ)。平家の侍盛久は,源平の戦いで生捕りにされ,土屋某(ワキ)の手で関東へ護送される。盛久は途中清水(きよみず)の観音へ別れの参拝を許され,輿(こし)に乗せられて東海道を下った。逢坂山を越え,瀬田の橋を渡り,老蘇(おいそ)の森,熱田の浦を経て,〈命なりけり〉と古歌に詠まれた小夜(さよ)の中山,〈変わる淵瀬(ふちせ)〉といわれる大井川を過ぎ,富士を仰ぎ箱根を越えて鎌倉に着いた(〈下歌(さげうた)・上歌(あげうた)・ロンギ等〉)。土屋から明日の命と知らされた盛久は,とくに願って観音経を読誦するが,そのあとの夢の中でふしぎな告げを受ける。由比ヶ浜に引き出された盛久は,経巻を手にして最期の座に着くが,太刀を振り上げた太刀取り(ワキヅレ)の目がくらみ,落とした太刀は二つに折れていた。盛久は頼朝の前に召し出され,夢の告げについて尋ねられる。その夢というのは,どこからともなく現れた老僧が,自分は都の清水から汝のためにやって来た者だが,安心しているがよいと告げたというのである(〈クセ〉)。この奇跡のために盛久は命を許され,杯を賜って舞を所望され(〈男舞〉),めでたく退出したのだった。前半は海道下りの叙景が中心,後半はクセと男舞が中心で,それを劇的な霊験が起こる場面でつないである。
執筆者:横道 万里雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
能の曲目。四番目物。五流現行曲。観世元雅(かんぜもとまさ)作。父の世阿弥(ぜあみ)自筆の台本が現存する。出典は『長門(ながと)本平家物語』。捕らえられた平家譜代(ふだい)の武将主馬判官(しゅめのはんがん)盛久(シテ)は、護送の土屋三郎(ワキ)に頼み、信仰する清水(きよみず)の観世音(かんぜおん)に参詣(さんけい)し、死の待つ鎌倉への旅を行く。処刑の前夜、観音(かんのん)経を読誦(どくじゅ)して霊夢を受ける。由比(ゆい)の浜で首を切られようとするとき、太刀(たち)持ち(ワキツレ)の刀が折れる奇跡が生まれ、同じ夢をみて感動した源頼朝(よりとも)によって命が許され、祝杯を授けられて喜びを舞う。信仰に支えられた人間の強さ、運命の前にたじろがぬ古武士の風貌(ふうぼう)を描いた佳作である。この能の前編ともいうべき『生捕(いけどり)盛久』があるが、今日では上演されない。
[増田正造]
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