室町初期の能役者,謡曲作者。世阿弥の子で,3代目の観世大夫(ただし後代の観世家は元雅を歴代に加えない)。祖父観阿弥の芸名に由来する座名〈観世〉が当時は姓同様に通用しはじめていた。通称十郎。実名元雅(はじめ元次だった可能性が強い)。弟に《申楽談儀》の編者観世七郎元能(もとよし)がいた。元雅は生年未詳ながら,没したときに40歳未満で,いとこの音阿弥(おんあみ)(観世三郎元重)より年少だったらしいから,1401年(応永8)ころの生れらしい。父が出家した22年(応永29)ころに観世大夫になったが,それ以前の活動は知られず,それ以後も,27年(応永34),29年(永享1)の薪猿楽(たきぎさるがく)への参勤,1428年(正長1)の醍醐寺清滝宮祭礼猿楽,29年の室町御所笠懸馬場での猿楽,32年の将軍御所での能への出演が知られる程度である。年長で世阿弥の養子でもあったらしい音阿弥を,29年に将軍になった足利義教が以前から後援しており,将軍就任後は世阿弥や元雅に圧迫を加えたため,元雅は存分な活動ができなかったらしい。苦境打開を願ってか,30年11月に吉野の奥の天川弁財天に尉面を奉納したのが現存しているが,その効もなく,1432年8月1日に父に先立って伊勢の津で没した。法名善春。幼少の子がいて,47年(文安4)に元服,大和の越智(おち)を本拠として薪猿楽などで活動し,音阿弥が継いだ京都の観世大夫に対して十郎観世大夫などと呼ばれたが,83年(文明15)に没し,子がなかったことから,元雅の血統は絶えたようである。
元雅は稀有の俊秀だったらしく,世阿弥は追悼文《夢跡一紙》で〈子ながらもたぐひなき達人〉〈祖父にも越えたる堪能〉と評し,《却来華(きやくらいか)》では〈無用のことをせぬ〉得法の境地に達していたと言うなど,高く評価していた。《花鏡(かきよう)》は元雅が相伝した書であるが,相伝者を特記していない世阿弥伝書のほとんどが元雅に相伝されたと解される。元雅の異才の発露しているのが能作者としての業績で,彼の作品と信じられる《隅田川》《弱法師(よろぼし)》《歌占(うたうら)》《盛久》《吉野山》や,作の可能性の強い《朝長》《維盛》《経盛》などの能は,素材・構造ともに新しく,父が樹立した舞歌幽玄能と祖父の時代の劇能の両特色を融合した新境地の開拓に成功している。人間の悲哀を主題とする曲が多いことや,《隅田川》の能の演出について父と論争した旨を伝える《申楽談儀》の逸話からも,世阿弥と異なる方向を目ざしていたことが知られ,元雅が長命であったなら能はもっと多様な展開を遂げたのではないかとの感が強い。
執筆者:表 章
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(松岡心平)
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室町時代の能役者、能作者。通称十郎。世阿弥(ぜあみ)の長男。観世流3世の大夫(たゆう)。観世家の系図ではなぜかこれを加えず、4世の音阿弥(おんあみ)(元雅の従弟(いとこ))を3世に数え、現在に至っている。わが子ながらもたぐいなき達人と世阿弥にいわせるほどの天才だったが、音阿弥びいきの将軍足利義教(あしかがよしのり)の圧迫を父とともに受け、不遇のうちに伊勢(いせ)で客死した。世阿弥の『夢跡一紙(むせきいっし)』はその追悼文。元雅の血統はその子越智(おち)観世十郎で絶えた。作品に『隅田川(すみだがわ)』『弱法師(よろぼし)』『歌占(うたうら)』『盛久(もりひさ)』などがある。いずれも暗い宿命の陰りを帯びた作品だが、祖父観阿弥(かんあみ)の劇的構成と、父世阿弥の詩的香気をあわせもつ名作として評価が高い。
[増田正造]
?~1432.8.1
室町中期の観世座の能役者・能作者。世阿弥の子で,「申楽談儀」編者の七郎元能とは兄弟。通称十郎,実名元雅。父の出家後,観世大夫となり活躍するが,将軍足利義教(よしのり)は元雅の従兄弟音阿弥元重を重用し,世阿弥父子を圧迫した。元雅は苦境の中で父に先立ち伊勢国の津で客死,30代の早世だった。法名善春。「風姿花伝」などの伝書を元雅に相伝した世阿弥は,追悼文「夢跡一紙」を著し,「子ながらもたぐひなき達人」「祖父にもこえたる堪能」と評した。若年より世阿弥の薫陶をうけて能作を行い,「隅田川」「弱法師(よろぼし)」「歌占(うたうら)」などに新傾向の作風を樹立。世阿弥晩年の作風に影響をうけつつ,遊舞主体の能をこえようとした。独自の悲劇的色彩が光る。
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… このように猿楽能の大成に力を尽くしたのは観阿弥・世阿弥父子であるが,なんといっても,観阿弥における小歌がかりのメロディと,早歌のリズム(拍節理論)の結合,世阿弥における幽玄化の推進と複式夢幻能の確立・昇華という内的拡充,南都の春日神社・興福寺,多武峰(とうのみね)の談山神社・妙楽寺,それに室町幕府の庇護という外的条件が,この系統を正統化し,永続させるエネルギーとなるのである。世阿弥の長男観世元雅は,現世に生きる人間の魂の極限状況を叙すことをライフワークとし,世阿弥の女婿金春禅竹は,実作,理論ともに,岳父の世界の延長線を描いて,両人ともに卓抜である。このあたりが,猿楽能の第1次完成期であろう。…
…狂女物。観世元雅(もとまさ)作。シテは梅若丸の母(狂女)。…
…近江猿楽には犬王(いぬおう)(後の道阿弥)という幽玄風の名手が出たが,後継者に恵まれず,室町中期から急速に衰えた。一方,大和猿楽は観世座を先頭に他の3座も力を伸ばし,観世元雅(もとまさ),金春禅竹(ぜんちく),観世信光(のぶみつ)らがそれぞれの持ち味の作能を行うなどして,他の地方の猿楽を圧倒した。 桃山時代の豊臣秀吉は大の能好きで,猿楽者の保護に気を配り,みずから舞台にも立った。…
… 世阿弥以降も夢幻能は能作の中心,または基本であった。世阿弥の子息観世元雅(もとまさ)作の夢幻能は,彼が早世したこともあって《吉野琴》(廃曲)1曲しか確認できないが,女婿にあたる金春(こんぱる)禅竹には《定家(ていか)》《芭蕉》《玉葛》などがあり,花やかさを押さえた寂寥(せきりよう)感の漂う作風を特色とする。作者不明の《野宮(ののみや)》《東北(とうぼく)》《三輪》など,今日上演頻度の高い女能も世阿弥以後の作のようである。…
…現在物。観世元雅(もとまさ)作。シテは主馬盛久(しゆめのもりひさ)。…
※「観世元雅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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