相良藩(読み)さがらはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相良藩」の意味・わかりやすい解説

相良藩
さがらはん

江戸時代,遠江国 (静岡県) 榛原郡相良地方を領有した藩。本多氏の1万 5000石に始り,板倉氏1万 5000~2万石,本多氏1万石を経て明和4 (1767) 年田沼意次が2万石で入封。意次の代に加封が相次ぎ5万 7000石まで上がったが,意明は天明7 (87) 年陸奥国に移封され,のち文政6 (1823) 年意正の代に1万石で復封し,明治1 (68) 年に意尊 (おきたか) が上総 (千葉県) 小久保 (→小久保藩 ) へ転出して廃藩置県にいたる。田沼氏は江戸城菊間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「相良藩」の解説

相良藩〔遠江国〕

遠江国、相良(現:静岡県牧之原市)を本拠地とした譜代藩。相良は徳川家康が鷹狩りのための御殿を造営した地。江戸時代中期には幕府老中、田沼意次が藩主を務めた。

相良藩〔肥後国〕

肥後国人吉(現:熊本県人吉市)に居城を置いた人吉藩別称。藩主の相良氏の名にちなむ。

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世界大百科事典(旧版)内の相良藩の言及

【相良[町]】より

…しかし,近世に入って新町,次いで市場町,前浜町,そして福岡町と順次町並みができた。1710年(宝永7)本多忠晴の入封により相良藩が成立し,とくに58年(宝暦8)に田沼意次が入封して大いに発展した。明和年間(1764‐72)には築城が許され,城下の町並みが整備された。…

【遠江国】より

…また19年(元和5)に近藤秀用が1万石で入封して一時井伊谷(いいのや)藩が成立するが,一族5人に分知し,旗本五近藤となり,2年後には廃藩となった。さらに1710年(宝永7)には本多忠晴が1万5000石で入封して相良藩が成立,同藩は58年(宝暦8)に田沼意次が入封して大いに発展するが,その失脚とともに一時廃藩,その後再度田沼氏が入って幕末に至った。遠江の諸藩には徳川家門や譜代大名が主として任ぜられ,また幕閣に連なるものが多数でるなど,移動が激しかった。…

※「相良藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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