日本大百科全書(ニッポニカ) 「相良藩」の意味・わかりやすい解説
相良藩(遠江国)
さがらはん
江戸中期以来、遠江(とおとうみ)国榛原(はいばら)郡相良(静岡県牧之原(まきのはら)市)に置かれた譜代(ふだい)藩。相良は、かつて徳川家康が好きな鷹狩(たかがり)のため「相良御殿」を造営した地で、当藩は代々この御殿跡に藩庁を置いた。1710年(宝永7)三河伊保(いぼ)から本多忠晴(ほんだただはる)がここに移されて立藩(1万5000石)、忠道(ただみち)、忠如(ただゆき)と在封し、忠如のとき陸奥(むつ)泉に転封。その後、板倉勝清(いたくらかつきよ)(1万5000石、のち2万石)を経て、1749年(寛延2)三河挙母(ころも)から本多忠央(ただなか)が入封(1万石)、忠央は若年寄に昇進したが、郡上(ぐじょう)藩騒動に連座して領地を没収された。その後に側衆(そばしゅう)田沼意次(おきつぐ)が1758年(宝暦8)遠江国榛原郡内で5000石が加増されたのを機に同年11月相良に就封した(1万石)。意次はやがて側用人(そばようにん)となり、2万石の大名となって相良に城を築いた。1772年(安永1)老中となり、あわせて3万石を領知、以後1785年(天明5)まで三度の加増により、遠江、駿河(するが)、三河、和泉(いずみ)、河内(かわち)の国々に合計5万7000石を領する大名に昇進、いわゆる田沼時代を形成した。しかし1786年老中を罷免されると2万石が収公、翌87年にはさらに2万7000石が没収され、相続した意明(おきあき)は陸奥下村に移封された(1万石)。意明移封後の相良城は徹底的に破壊され廃藩となったが、1823年(文政6)意正(おきまさ)が陸奥から相良の旧地に戻り、相良藩は零細ながら再興された。意正は若年寄、側用人などを歴任し、意留(おきとめ)、意尊(おきたか)と続いた。1868年(慶応4)徳川宗家の処分に関連して、上総(かずさ)国小久保(千葉県富津(ふっつ)市)に移封され、この地は静岡藩に編入された。
意次時代の藩治を語るものは少ないが、東海道藤枝(ふじえだ)宿の西から相良に通ずる通称田沼街道の開設、相良城下萩間(はぎま)川の河口付近の相良湊(みなと)の一角に、仙台藩の肝煎(きもいり)でできたという仙台河岸(がし)の名が残るなど、田沼の権勢の片鱗(へんりん)を知ることができる。
[若林淳之]