第1次大戦中,アメリカと日本の間に結ばれた中国に関する共同宣言。二十一ヵ条要求など第1次大戦中の日本の中国侵略に不安をもったアメリカは,1917年の対独参戦を機に日本からの特使派遣を要請し,日本は前外相石井菊次郎を特使として派遣した。同年9月,石井は国務長官R.ランシングと交渉を開始,日本の中国における特殊地位を強調した。これに対してランシングは日本の行動を抑制するため,中国での勢力圏の撤廃と領土保全,機会均等について宣言することを求めた。結局同年11月両者は交換公文に署名したが,その前段で,アメリカは中国での日本の特殊権益を認め,後段では中国の領土保全,門戸開放,機会均等の原則をうたった。協定は一時的に日米間の対立緩和に役だった。日本はこれをもって二十一ヵ条要求に基づく日中条約をふくむ日本の特殊地位が承認されたとしたが,アメリカは日本の特殊地位は経済的利益のみをさし,政治的権利をふくまないものと解釈し,両者の解釈は大きくくい違っていた。結局,この協定はワシントン会議での九ヵ国条約締結にともなって23年廃棄された。
執筆者:由井 正臣
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1917年(大正6)11月2日、日本の特派大使石井菊次郎とアメリカの国務長官ランシングR. Lansingの間で交換された公文による共同宣言。要旨は、アメリカ政府は、日本が中国とくに満蒙(まんもう)地方に「特殊な利益」を有することを承認する、日米両国は中国の領土保全、門戸開放、商工業に対する機会均等主義を支持する、というもの。第一次世界大戦中の対日宥和(ゆうわ)政策の一環としてアメリカは、列国の勢力範囲を撤廃して中国の門戸を開放すれば、中国市場に近い日本は有利な地位にたつと説き、石井もこれに賛成であったが、時の寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣は、対華二十一か条要求に盛られている日本の特殊権益の承認を協定に含めるよう訓令し、折衝のすえ協定は成立した。しかし、中国はただちに協定に対する抗議を表明し、また日本は政治的な特殊権益をも認められたと解釈したが、アメリカは経済上の関係の承認であるとし、両国の意見は対立した。1922年(大正11)九か国条約が成立すると協定廃棄が提起され、翌23年4月14日、廃棄の交換公文が取り交わされた。
[大森とく子]
『外務省編『明治百年史叢書 日本外交年表竝主要文書 上』(1955・原書房)』
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1917年(大正6)11月,石井菊次郎特派大使とアメリカのランシング国務長官の間で結ばれた中国に関する共同宣言。9月初旬からの交渉で,日本は中国における特殊利益を承認させることを主目標とし,アメリカ側は機会均等・勢力範囲撤廃の確約を求めてこれに反対した。日本は中国における門戸開放・機会均等・領土保全を認める一方,「合衆国政府は日本国が支那に於て特殊の利益を有することを承認す」との言葉を条文に挿入させることに成功した。日本側はこれを政治的特殊権益も保証されたものとし,アメリカ側は経済関係のみとするという解釈上のくいちがいを生んだが,協定は九カ国条約の締結で23年に廃棄された。
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1917年11月2日に成立した日米共同宣言。第一次世界大戦中,東アジアにおいて日本はひとり勢力拡張に努め,中国の山東省および太平洋におけるドイツ権益の獲得と,満洲,モンゴルにおける勢力の伸張を企図した。これに対してアメリカは,満洲だけは日本の「特殊利益」の地域として承認するが,それ以上の日本の進出を牽制しようとする態度に出て,駐米大使石井菊次郎と米国務長官ランシング(Robert Lansing)の共同宣言を結んだ。23年4月廃棄。
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