石坂昌孝(読み)いしざかまさたか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石坂昌孝」の意味・わかりやすい解説

石坂昌孝
いしざかまさたか
(1841―1907)

明治時代の自由民権家。天保(てんぽう)12年4月22日、武蔵(むさし)国南多摩郡野津田(のつだ)村(東京都町田市野津田町)に農業石坂吉恩の三男として生まれる。しかし、生後まもなく母ほんの実家である名主石坂昌吉家の養子となる。幼名は高之助(たかのすけ)。16歳で石坂家を継ぎ、22歳で義理の妹ヤマと結婚。維新後は戸長、区長県属を歴任し、小野郷学(おのごうがく)を設立するなど地域の青年教育にも力を注いだ。1879年(明治12)神奈川県会が発足し、県会議員議長に選ばれる。81年には武相懇親会を設立。このころより民権思想の普及に精力的に取り組み、82年自由党入党。のち大井憲太郎派に近づき大阪事件(1885)にも連座。90年に多摩から衆議院議員に選出され、96年には群馬県知事に就任した。三多摩壮士の統領ともいえるこの豪農民権家は明治40年1月13日、病を得て東京・牛込(うしごめ)の寓居(ぐうきょ)で死去した。長女美那(みな)は北村透谷(とうこく)の妻、長子は透谷と同年の自由民権家で、アメリカで客死した公歴(まさつぐ)である。

色川大吉

『渡辺奨著『石坂昌孝の生涯』(『多摩文化』21号所収・1969)』

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「石坂昌孝」の解説

石坂 昌孝
イシザカ マサタカ


肩書
衆院議員(自由党),群馬県知事

生年月日
天保12年4月22日(1841年)

出生地
武蔵国南多摩郡野津田村(現・東京都町田市)

経歴
16歳で豪農石坂家を継ぐ。維新後、戸長、区長、県属を歴任し、青少年の教育機関小野郷学の設立に尽力するなど地方政界で活躍。明治11年多摩最初の民権結社をつくり、武相の民権家を総結集、組織化を図る。12年神奈川県議・議長となるが1年で退き、上京。14年村野常右衛門らと政治結社・融貫社を結成し、15年には自由党入りした。自由党解体後、18年大阪事件に連座。自由民権のために財産を使い果たすが、借金をして23年以来東京から衆院議員に4選。29〜30年群馬県知事をつとめた。三多摩壮士の典型といわれる。

没年月日
明治40年1月13日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「石坂昌孝」の解説

石坂昌孝

没年:明治40.1.13(1907)
生年:天保12.4.22(1841.6.11)
明治期の自由民権運動家。武蔵国多摩郡野津田村(東京都町田市)に生まれる。明治12(1879)年神奈川県会議員に選ばれ初代議長になったが,まもなく退き民権運動に参画,14年村野常右衛門らと原町田に融貫社を設立,国会開設運動の一翼を担った。同年自由党が結成されると,これに加わり,16年には同党常議員に就任,各地を遊説した。23年第1回総選挙で東京から衆院議員に当選,以後4回連続当選。娘美那子は北村透谷の妻。<参考文献>見田宗介編『自由と民権』(『明治の群像』5巻)

(寺崎修)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石坂昌孝」の解説

石坂昌孝 いしざか-まさたか

1841-1907 明治時代の民権運動家。
天保(てんぽう)12年4月22日生まれ。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)の名主の養子となる。明治12年神奈川県会議員,初代議長となる。14年融貫社を結成,国会開設運動をすすめる。自由党にくわわって大阪事件に連座した。23年衆議院議員(当選4回)。29年群馬県知事。明治40年1月13日死去。67歳。

石坂昌孝 いしざか-しょうこう

いしざか-まさたか

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367日誕生日大事典 「石坂昌孝」の解説

石坂 昌孝 (いしざか まさたか)

生年月日:1841年4月22日
明治時代の自由民権運動家;政治家。神奈川県会議員初代議長;衆議院議員
1907年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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