日本大百科全書(ニッポニカ) 「石塔義房」の意味・わかりやすい解説
石塔義房
いしどうよしふさ
生没年未詳。南北朝時代の武将。入道して義慶(ぎけい)、のち秀慶(しゅうけい)と号す。足利(あしかが)氏庶流石塔頼茂(よりもち)の子。建武(けんむ)政権下に駿河(するが)、伊豆両国守護代となり、足利尊氏(たかうじ)が幕府を開くと両国守護となった。1337年(延元2・建武4)奥州総大将として発向し、南軍追討に努めたが、45年(興国6・貞和1)罷免された。そこで足利直義(ただよし)党となり、高師冬(こうのもろふゆ)の擁した足利光王(みつおう)(基氏(もとうじ))の奪還に功あり、伊豆守護に還補された。しかし51年(正平6・観応2)末、東下した尊氏に敗れ、翌年直義の死後は南朝方となり、新田義興(にったよしおき)らとともに一時鎌倉を占領した。ついで北国の新田義宗(よしむね)、桃井直常(もものいただつね)らに呼応して駿河に挙兵し、嫡子頼房(よりふさ)らとともに53年(正平8・文和2)入京したらしいが、その後の動静は明らかでない。
[小川 信]