石塔義房(読み)いしどうよしふさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

石塔義房
いしどうよしふさ

南北朝時代の武将。足利氏の支族で頼茂の子。尊氏挙兵に従い,陸奥鎮将として活躍したが,吉良貞家と交代させられたため尊氏から離反,尊氏と不和の直義に従った。のち新田氏に通じ南朝方となったが,尊氏の京都回復とともに没落。 (→石塔氏 )

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百科事典マイペディアの解説

石塔義房【いしどうよしふさ】

南北朝時代の武将。生没年不詳。足利一族,頼茂(よりしげ)の子。建武政権崩壊後,奥羽で転戦,1337年には奥州総大将となった。その後京都に召還され,観応の擾乱(じょうらん)では足利直義(ただよし)方として行動し,鎌倉に下り足利尊氏方を攻めるが敗れた。直義の死後南朝に属し,1355年に足利直冬(ただふゆ)とともに足利尊氏と戦ったが敗れ,没落した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

石塔義房 いしどう-よしふさ

?-? 南北朝時代の武将。
一族の足利尊氏の挙兵に応じて功をたて,建武(けんむ)2年(1335)駿河(するが),伊豆(いず)の守護となる。貞和(じょうわ)元=興国6年尊氏に奥州総大将を解任されたため,観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直義(ただよし)方に転じる。直義の死後は南朝方の将として転戦するが,尊氏が京都を回復したのちは没落した。通称は四郎。

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世界大百科事典 第2版の解説

いしどうよしふさ【石塔義房】

南北朝時代の武将。生没年不詳。足利一族,頼茂の子。建武政権崩壊後,奥羽各地で転戦。1337年(延元2∥建武4)奥州総大将に着任し,奥羽における足利方の中心となる。45年(興国6∥貞和1)京都に召還され,観応の擾乱(じようらん)には足利直義方として行動。鎌倉に下り尊氏方を攻めるが,尊氏軍に敗れ,直義の死後南朝に属し上洛,55年(正平10∥文和4)南朝方として足利直冬とともに尊氏と戦うが敗れて没落。【伊藤 喜良】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

石塔義房
いしどうよしふさ

生没年未詳。南北朝時代の武将。入道して義慶(ぎけい)、のち秀慶(しゅうけい)と号す。足利(あしかが)氏庶流石塔頼茂(よりもち)の子。建武(けんむ)政権下に駿河(するが)、伊豆両国守護代となり、足利尊氏(たかうじ)が幕府を開くと両国守護となった。1337年(延元2・建武4)奥州総大将として発向し、南軍追討に努めたが、45年(興国6・貞和1)罷免された。そこで足利直義(ただよし)党となり、高師冬(こうのもろふゆ)の擁した足利光王(みつおう)(基氏(もとうじ))の奪還に功あり、伊豆守護に還補された。しかし51年(正平6・観応2)末、東下した尊氏に敗れ、翌年直義の死後は南朝方となり、新田義興(にったよしおき)らとともに一時鎌倉を占領した。ついで北国の新田義宗(よしむね)、桃井直常(もものいただつね)らに呼応して駿河に挙兵し、嫡子頼房(よりふさ)らとともに53年(正平8・文和2)入京したらしいが、その後の動静は明らかでない。[小川 信]

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世界大百科事典内の石塔義房の言及

【奥州探題】より

…《南方紀伝》等は家長を奥州管領の初任としているが,陸奥守兼奥州総大将が正確な名称であり,彼は鎌倉の足利義詮を補佐する執事でもあった。37年(延元2∥建武4)2月には駿河・伊豆守護であった石塔義房が奥州総大将として入部してくる。奥州総大将の職権は軍勢催促,軍忠証判・注進などの軍事指揮権を中核とするものであったが,のちになると義房は所領の安堵,充行(あておこない),兵糧米徴収等の権限を行使し,統治権をも掌握しようとした。…

※「石塔義房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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