石田神社(読み)いしだじんじや

日本歴史地名大系 「石田神社」の解説

石田神社
いしだじんじや

[現在地名]寒川町石田東

石田東の西端、布勢ふせ池の東側鎮座。神社西側に広がる社叢が美しく、讃岐百景の一つになっている。雄襲熊おそくま(小十九間)八幡ともいい、旧郷社。石田東・石田西の産土神で、祭神品陀和気命・足仲彦命・息長帯姫命。宝蔵院古暦記(松浦文書)には石田郷八幡として承平六年(九三六)勧請とあり、社記によると天暦四年(九五〇)以後度々遷宮が行われ、とくに応永一〇年(一四〇三)には守護細川頼之が、永正五年(一五〇八)には寒川元家が修造したという。その後、天正年中(一五七三―九二)に長宗我部氏の兵乱で焼失(御領分中宮由来)、慶長一四年(一六〇九)再興した(讃岐国名勝図会)


石田神社
いしだじんじや

[現在地名]八幡市上津屋里垣内

上津屋こうづやの産土神で祭神は素戔嗚すさのお命。旧村社。「拾遺都名所図会」には「牛頭天皇社」として「内里のひがし十町ばかり上津屋村にあり、土人生土神とす、例祭ハ九月九日」とある。社記では大宝二年(七〇二)三月、綴喜つづき郡司息長直兼理が内里うちさと村の山中(現八幡市内里大谷)に一社を創建し、同年九月上津屋に遷座したといい、貞観一一年(八六九)九月、疫病流行の際、祈祷をしたことにより大宝天皇の尊号を授けられた。また治承四年(一一八〇)五月、源頼政が宇治合戦に際し陣地としたため、五月二六日平家のため兵火にかかり社殿・古器・宝物などことごとく焼失したが、文治四年(一一八八)源頼朝が神事料として五二貫文の地を寄付し、建長四年(一二五二)八月神殿の再造が成った。


石田神社
いしだじんじや

[現在地名]八幡市岩田茶屋ノ前

西岩田にしいわた集落の北西端にある。祭神は五十日足彦いかたらしひこ命で、天照あまてらす大神大山咋おおやまくい命を配祀する。旧村社。江戸時代には御霊ごりよう神社と称した。「延喜式」神名帳に載せる久世くせ郡「石田イハタノ神社大、月次新嘗」とされるがつまびらかでない。「京都府地誌」は御霊神社として、「村社、本村西北ニ在リ、(中略)五十日帯彦命ヲ祀ル、或云猿田彦命(中略)旧西方字古宮ニ鎮座、元久元年甲子該地ニ遷地ス」と鎮座地の移転のあったことを記す。江戸時代の地誌「山城名勝志」に「石田神社 在于岩田村、今称御霊」とあり、「拾遺都名所図会」は「御霊社 上津屋の巽十町ばかり岩田村にあり、祭神御霊八所の其一にして文太夫の霊神也、土人生土神とす、例祭ハ九月九日」と紹介している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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