岩田村(読み)いわたむら

日本歴史地名大系 「岩田村」の解説

岩田村
いわたむら

[現在地名]八幡市岩田〈岩(いわ)ノ前(まえ)・大谷(おおたに)・拝(おが)ミ・加賀(かが)ノ辻(つじ)・北浅地(きたあさじ)・北(きた)ノ口(くち)・久保(くぼ)・里(さと)・大将軍(だいしようぐん)・大日(だいにち)・高木(たかぎ)・竹綱(たけづな)・茶屋(ちやや)ノ前(まえ)・辻垣内(つじがいと)・外島(とじま)・中道(なかみち)・西嵐(にしあらし)・西玉造(にしたまつくり)・橋溝(はしみぞ)・八丁(はつちよう)・東玉造・古宮(ふるみや)・松原(まつばら)・南野(みなみの)・六(ろく)ノ坪(つぼ)〉

八幡の東南角を占め、東は木津(きづ)川、南は大住(おおすみ)村(現綴喜郡田辺町)、北は野尻(のじり)村、西は古宮の地で内里(うちさと)村と接する。集落は西岩田(現茶屋ノ前・北ノ口)と東岩田(現辻垣内・松原・竹綱・高木)に分れる。


岩田村
いわたむら

[現在地名]上富田町岩田

北は岡(おか)村、南は生馬(いくま)村、東は市(いち)ノ瀬(せ)村、西は生馬村の飛郷救馬谷(すくまだに)と朝来(あつそ)村。中央部を西南に流れる富田川と、右岸側から合流する支流岡川に発達した沖積地に開かれた村で、小名田熊(たくま)は富田川左岸の小谷に、田熊川(たくまがわ)はその上流にあり、尾崎(おさき)は岡村との境に位置する。下田熊(しもたくま)の田熊遺跡から弥生式土器・銅鐸片・石包丁などが出土し、大坊(おおぼ)・尾崎に条里地割が認められる。村の東部を熊野街道中辺路が通じる。「続風土記」に「河岸巌険より起る名にして、旧此地の大名なり、今は一村の名となれり」と記される。

「中右記」の熊野詣途次を記した天仁二年(一一〇九)一〇月二二日条に「留氏院庄櫟原石田上座清円房」とみえ、中世は勧学院領櫟原石田(いちはらいわた)庄の中心集落として推移した。


岩田村
いわたむら

[現在地名]桜井市大字芝(しば)

三輪村の北西に立地する。岩田は大神(おおみわ)神社の祝田の義とする説がある。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳には「岩田庄十三町九反百五十歩」、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「院入庄号岩田庄」「岩田下司」、また「多聞院日記」天正五年(一五七七)六月二九日条には「岩田名主メン五ワ、クス本藤二郎廿疋持了」とある。小字ゼンコウジから古瓦が出土したことがある。

慶長郷帳には村高九八四・五二石。戒重藩(織田有楽長益)領。宝永元年(一七〇四)四代藩主織田長清の時代、藩庁所在地の式上郡戒重(かいじゆう)村の位置が藩領の中心から離れ、年貢の収納に不便で、しかも狭隘・陰湿のため藩士のなかには永住を嫌う者があり、いっぽう岩田村は藩領の中心にあり、高燥で風景もよく上(かみ)街道筋にあたる交通便利の場であるとして、幕閣の小笠原佐渡守に屋敷替(陣屋の移転)を願出、原則的に勝手次第と認められた。その結果、宝永二年に田畑の接収に始まり縄張りが行われ、翌三年岩田御屋敷の地祭が行われた。


岩田村
いわたむら

[現在地名]津市岩田(いわた)・本(ほん)町・南中央(みなみちゆうおう)・上弁財(かみべざい)町・修成(しゆうせい)町

津城下の南を東流する岩田川南岸にある。「和名抄」に「石田郷」があり、「以波多」または「伊波多」と訓ぜられ、その名を受継ぐ。石田郷の郷域は、康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)によると、安東(あんとう)郡の二条から八条までに及ぶ広い地域だったらしいが、どこまで事実か疑問が残る。治承五年(一一八一)二月日付太神宮司庁出船注文(書陵部蔵壬生文書)に「石田御厨々」とあり、石田郷内に設けられた御厨と思われる。「神鳳鈔」は安西(あんさい)郡に「外宮岩田御厨廿丁三石」とある。岩田村は安東郡に属するので、安西郡というのは誤りであろう。「外宮神領目録」にも「岩田御厨三石内 六月一石九月一石十二月一石」、「外宮神領給人引付」(神宮文庫蔵)にも「彦貞岩田御厨九斗、内六九十二三斗宛」とみえる。


岩田村
いわたむら

[現在地名]東大阪市岩田町一―六丁目・西岩田(にしいわた)一―四丁目・花園西(はなぞのにし)町一丁目・瓜生堂(うりうどう)一―三丁目・若江西新(わかえにししん)町一丁目

若江郡に属し、下若江(しもわかえ)村の北にある。大和川付替えまでは北東の村境を玉串(たまくし)川から分れた菱江(ひしえ)川が流れ、それらの氾濫原にあった平坦地。天保郷帳の岩田村の肩書に「古ハ岩田村・瓜生堂村・西岩田村・三軒家、四ケ村」とあり、瓜生堂・西岩田・三軒家(さんげんや)は岩田村の枝郷。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二千二三八石余、山城淀藩領。以降領主の変遷は若江村に同じ。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では高二千八石余、ほかに二一八石余の「枚方替地物成詰増高」があり、慶応四年(一八六八)の村明細帳(石田家文書)に「正保弐年豊島重左衛門殿代地物成詰増高」とある。


岩田村
いわたむら

[現在地名]岐阜市岩田・岩田西(いわたにし)・岩田東(いわたひがし)

芥見(あくたみ)村の南西、長良川左岸に立地する。中世、九条家領としてみえる石田(いわた)庄が当地であったと考えられるが未詳。平安和歌に詠まれた「岩田の小野」は、岩田がありふれた地名なので、それをどこと特定することは難しい。ただし契沖が「勝地吐懐編」にいうように「東路、すすき」を詠んでいない歌は山城国の岩田(現京都市伏見区)を対象にしたものと考えてよいだろう。

<資料は省略されています>

この岩田を美濃としたのは、「和名抄」記載の大野郡石太(いそほ)郷を「いわた」と読んで、それに結び付けたためであろうか。


岩田村
いわたむら

[現在地名]神埼町大字尾崎(おざき)字岩田・唐香原(からこうばる)・平山(ひらやま)

早稲隈(わさくま)山の南の山麓地帯に位置する。

正応二年(一二八九)三月一二日の蒙古合戦勲功地配分状(山代文書)に

<資料は省略されています>

とある。神埼庄の北西端であった。村の東西には通称七隈の山々といわれる小高い山が帯状に広がり、すぐ東隣には横大路(よこおおじ)城や勢福寺(せいふくじ)城があった。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳によれば知行士として鍋島弥平左衛門、宮崎杢兵衛らがいる。


岩田村
いわたむら

[現在地名]大和町大字岩田

南東は三輪(みわ)、東は塩田(しおた)、北東は束荷(つかり)、西は立野(たての)・光井(みつい)(現光市)の各村に接する山村。熊毛宰判に属した。

平安時代末期から中世にかけては、石清水(いわしみず)八幡宮(現京都府八幡市)領石田(いわた)保の地であった(石清水文書)。

村名は慶長の検地帳などにはみえず、「地下上申」に岩田村と現れる。「注進案」は「当村は美和庄之内ニ而、岩田村と唱候」と記す。また村名の由来を「当村岩戸御立山之内ニ高サ六尺五六寸幅四尺三四寸壱尺余ニ而建屏之様なる石御座候、是を天之岩戸石と申伝へ、依之岩戸村と名付し」という。

「地下上申」によると総石高二千一五二石六斗余、総戸数三〇〇軒、うち一五一軒が本百姓、総人口六二一人。


岩田村
いわたむら

[現在地名]長瀞町岩田

荒川の右岸、城(しろ)山の北西麓に位置し、東は金尾(かなお)村(現寄居町)、南は峰を境に風布(ふうつぷ)村・井戸(いど)村、北からは荒川を隔てて矢那瀬(やなせ)村・野上下郷(のがみしもごう)・中野上(なかのがみ)村。井戸村からの往還が村内を通り金尾村に向かう。丹党に属した岩田氏の名字の地といい、丹党系図(諸家系図纂)では七郎丹二郎基政の子政光が岩田六郎、基政の孫広方が岩田五郎を名乗っている。応永二五年(一四一八)三月二八日、鎌倉公方足利持氏は安保宗繁・同満春らの訴えにより、秩父郡「岩田郷内田畠在家」などに対する本庄左衛門入道・岩田左近蔵人らの押妨を退け、下地を宗繁・満春らに沙汰し付けるよう横瀬美作守らに命じている(「足利持氏御判御教書」安保文書)。


岩田村
いわたむら

[現在地名]山陽町岩田・山陽団地(さんようだんち)一―七丁目

穂崎(ほざき)村の北、倉敷往来筋にある和田(わだ)村の東南丘陵寄りに立地。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)の高月(たかつき)庄に村名が載る。「吉備温故秘録」では鳥取(ととり)庄にあげられる。寛永備前国絵図の高五二八石余、正保郷帳に枝村山之上(やまのうえ)がみえる。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高五九一石余。貞享元年には荒などを引いた残高五三七石余。享保六年(一七二一)には田畑三一町六反余、家数六六・人数三九八、池三(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高八六五石余、蔵入地と家臣八名の給地。


岩田村
いわだむら

[現在地名]中村市岩田

敷地(しきじ)村の西、岩田川下流域にある。「土佐州郡志」は「東西八町南北四十町、戸凡七十余、其土黒多砂」と記す。

天正一八年(一五九〇)の式地村地検帳に式地(しきじ)村を構成する一地域として「式地岩田」とみえる。検地面積六〇町九反余、屋敷数四八うち居屋敷三二。屋敷のうちには大用(だいよう)寺・洞亀庵・真光寺が含まれる。また「川原城ノ詰、古城」とある川原(かわはら)古城の城主は川原氏で、同城は「川原ハチカ森古城」とある鉢(はち)ヶ森(もり)城(城主は岩田将監と伝えるが、もとは川原氏か)の外郭城として築かれたものと思われる。


岩田村
いわたむら

[現在地名]板倉町岩田

谷田(やた)川左岸に立地し、東は板倉村、北は籾谷(もみや)村、西は羽附(はねつく)村・赤生田(あこうだ)村(現館林市)、南は谷田川を挟んで飯野(いいの)村と斗合田(とごた)村(現明和村)。現在静岡県熱海(あたみ)市の曹洞宗保善(ほぜん)院にある貞和五年(一三四九)銘の地蔵菩薩半伽趺坐像に「願主上野国岩田郷住人九郎三郎秀信」とある。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方七四石九斗余・畑方二二五石余とあり、田方に「旱損」と注記される。天和二年(一六八二)旗本松平・三島・山田領の三給となる(分郷配当帳)。


岩田村
いわだむら

[現在地名]越路町岩田

飯塚(いいづか)村の南西、枡形(ますがた)山東麓にある。延宝六年(一六七八)の岩田村鏡(岩塚村誌)にはかつては「山東郡太田保赤田郷岩田」を称したと伝える。正保国絵図に三島郡「岩田村」高二八八石余がみえる。集落中ほどを流れる渋海(しぶみ)川支流の奔走(ほんそう)川以北を通称下村(しもむら)と称しており、正保国絵図には「下岩田村」高二八八石余とある。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高六〇九石二斗余のうち山高七石・青苧高三石一斗余・漆高二石四斗余。近世初めは高田藩領、天和元年幕府領、貞享三年(一六八六)相模国小田原藩稲葉氏領、天明六年(一七八六)幕府領、寛政元年(一七八九)長岡藩領となり明治に至る。


岩田村
いわたむら

[現在地名]志賀町岩田

宿女(やどめ)村の南に位置する低丘陵谷間の村。東に狭い耕地があり、その中央を菱根(ひしね)川が北流。岩田・浜田(はまだ)の二集落からなる。近世初頭は雨田(あまだ)村の内。元和二年(一六一六)の高二九一石余(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳では雨田・谷(くるみだに)・岩田・宿女の四ヵ村として合せて高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に高三四三石、免四ツ四歩、新田高七石、小物成は山役一一八匁・苦竹役八匁、鳥役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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