子爵議員を中心とする貴族院内最大の院内団体で,1891年11月に結成され,1947年3月の帝国議会の終幕まで存続した。結成当時の幹部は,伯爵大原重朝,子爵京極高典,同加納久宜,同山内豊誠,同鍋島直虎,同堀田正養で,1892年11月の第4議会開会当時には70名の議員を擁していた(侯爵1,伯爵6,子爵26,男爵10,勅選12,多額納税者15)。同会は92年7月に選挙母体として尚友会を組織したが,伯・子・男三爵議員の互選が完全連記制であったために,補欠選挙や総改選のたびに,この尚友会は威力を発揮した。97年の第2回総改選では子爵議員70名中の45名を,1911年の総改選では70名中の66名を当選させている。当初は政党勢力の勢力拡大にもっとも敵対的で,1898年の憲政党内閣や1900年成立の第4次伊藤博文政友会内閣の打倒に力を尽くし,山県有朋閥の貴族院の拠点の一つであった。しかし大正初年の第1次山本権兵衛内閣のころから山県閥のもう一つの拠点である幸俱楽部との間に亀裂が生じはじめ,寺内正毅内閣のころから貴族院全体の指導勢力を目ざす〈大研究会〉構想を掲げる水野直,青木信光ら若手幹部の動きが活発になり,原敬内閣の下で準与党となって山県閥の支配を脱して政友会と提携した。24年1月に成立した清浦奎吾内閣は研究会を第1与党としたもので,同会の政界における絶頂期であった。第2次護憲運動で清浦内閣が倒れて以後は政界の表面にはあまり姿をあらわさなくなったが,貴族院廃止の時点でも373議席中142議席を占め,一貫して最大会派としての地位は失わなかった。
執筆者:坂野 潤治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
貴族院の院内会派。帝国議会開設直前の1890年(明治23)9月、貴族院の子爵議員を中心に政務調査と懇親のため政務研究会が結成され、何回かの改称の後、1891年11月、研究会として会名を改めて発足した。幹部は子爵議員堀田正養(ほったまさやす)ら。他の有爵議員や勅選議員を含めて会員約40名。1892年選挙支持団体として院外に尚友会(しょうゆうかい)を結成。その後、勅選議員清浦奎吾(きようらけいご)の指導により山県有朋(やまがたありとも)系官僚派と手を結んで勢力を拡張し、衆議院の政党勢力と対抗。1901年には第4次伊藤博文立憲政友会内閣の増税案に貴族院で反対し、内閣を窮地に追い込んだ。明治末~大正期には政友会に接近し、1920年(大正9)原敬(はらたかし)政友会内閣に幹部の大木遠吉(おおきえんきち)が司法相として入閣。貴族院の最有力会派として、つねに140~170議席を確保。1922~23年の加藤友三郎内閣に4人を入閣させ、ついで1924年1月清浦奎吾内閣成立に際して組閣工作を主導し、3閣僚を送り込んだが、これに反発する政党勢力(護憲三派)などによる第二次護憲運動の矢面に立たされ、同年6月清浦内閣は退陣した。これを契機に勢力は後退し、脱会者も続出。第二次世界大戦後の1947年(昭和22)5月、日本国憲法の施行を前に貴族院は廃止となり、研究会は消滅した。
[鳥海 靖]
『尚友倶楽部編『貴族院の会派研究会史 明治大正篇』、『貴族院の会派研究会史 昭和篇』(1980、1982・尚友倶楽部)』
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…しかし,政党の勢力伸張を喜ばない山県有朋系官僚は,主として官僚の中から任命された勅選議員を茶話会(1893結成)や第1次無所属団(1898結成)に集め,さらに1899年末にはこの両会派(幸俱楽部派という)の共通クラブとして幸俱楽部を発足させ,自派の貴族院における足場を強化した。また山県系官僚は,貴族院最大の会派である研究会(1891結成)との関係を強めた。 もっとも,日露戦争後のいわゆる桂園時代に,政友会は山県閥の貴族院支配に挑戦を試みた。…
※「研究会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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