もっとも広い意味では、宗教的行動の対象はすべて神とよばれるが、厳密な意味では、人格的で個性がはっきりして、固有名詞をもった超自然的存在をいう。しかし、宗教によって、神の形態や内容は多種多様である。
[藤田富雄]
カミは上(かみ)であるとする語源説が有力であったが、奈良時代の発音では、カミ(神)はKamï、カミ(上)はKamiで別であったから、現在では否定論が多い。鏡(かがみ)の略、隠身(かくりみ)の転訛(てんか)、朝鮮やモンゴルの「汗(カン)」と同源、アイヌ語の「カムイ」と同根など、語源については諸説があるが、本居宣長(もとおりのりなが)が「迦微(かみ)と申す名義(なのこころ)はいまだ思ひえず」とし、「旧(ふる)く説けることども皆あたらず」といっているように、カミの本来の意義を語源的に断定することは、きわめてむずかしい。そこで宣長は実際の用例から神の定義を帰納的に導き出した。「さておよそ迦微とは、古御典等(いにしへのふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、そを祀(まつ)れる社(やしろ)にまします御霊(みたま)をも申し、また人はさらにもいはず、鳥獣木草のたぐひ海山など、そのほか何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云(い)ふなり」といい、しかも「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの優れたるのみを云ふに非(あら)ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」と『古事記伝』巻3に説いた。
この定義は、日本の古典に現れている神々が、人間の知や理を超えた非合理的な性格をもつことをとらえていると同時に、神々に対して人間が畏敬(いけい)の情をもって「ただその尊きをとうとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき」態度をもとらえている。この定義は、カミを機能の面からきわめて広い意味で一般的に規定した卓見であり、ドイツの神学者オットーのヌミノーゼNuminoseの「畏怖させる神秘」という分析を想起させるが、キリスト教などにみられるような、人間とはまったく異質的な「絶対他者」という観念のないことが注目される。
漢字の「神(しん)」は、祭壇を表す「示」と電光の形を描いた「申」からなり、祇(ぎ)(地のカミ)、鬼(き)(人の魂)に対し「天神」をさす。カミに神という漢字を用いたため、中国の上帝という超人的な意味が加えられ、明治以後、テオスtheos、デウスdeus、ゴッドgodなどの訳語として用いられたため、ギリシア哲学の最高の統一原理という抽象的意味が加わり、キリスト教の唯一絶対神という性格も加味されるようになった。
[藤田富雄]
宗教学の立場からみると、カミという日本語には二つの異なった性質が含まれている。一つは、ミズチ(水の威力)、イカヅチ(雷の威力)などの「チ」、ムスヒ(生産の威力)、タマシヒ(霊魂の威力)などの「ヒ」で、ちょうど磁力のように、宇宙全体に行き渡っている目には見えない超自然的な呪力(じゅりょく)である。程度の差はあっても、人間にはいうまでもなく、雷電風雨などの自然現象、山川草木岩石などの自然物にも含まれていて、しかもかならずしもそのものに固有ではなく、物から物へと転移したり、伝染したりすることができると信じられている。メラネシア語に由来する「マナ」manaにあたる。もう一つは、モノノケ(物怪)、モノイミ(物忌)などの「モノ」、ヤマツミ(山津見)、ワタツミ(海津見)などの「ミ」、コタマ(木魂)、イナダマ(稲魂)などの「タマ」で、特定の自然物や自然現象と離すことのできない関係にあるが、個性のはっきりしない「精霊」spiritである。高御産巣日神(たかみむすびのかみ)や大山祇神(おおやまつみのかみ)のように、古語のカミにはマナと精霊の二つの性質が明らかに含まれている。
マナの流動的に転移して万物に作用する性質が一般化されるときには、マナは、宇宙を支配する法則、ないしは宇宙の根本原理にまで高められる。古代インドの梵(ぼん)(ブラフマンbrahman)、中国の道(タオtao)、仏教の法(ダルマdharma)、ギリシアのロゴスlogosなどの観念はその例で、非人格的な力の系列に属するこれらの観念は、人間の崇拝対象とはなっていても、宗教学における神の概念には入れない。厳密な意味では、精霊の観念のような人格的な系列に属するものだけが、神の概念に入るのである。
人間にタマ(霊魂soul)が宿っているように、万物に精霊が宿っていると信じる信念体系は「アニミズム」animismとよばれている。悪魔、天狗(てんぐ)、一寸法師(いっすんぼうし)、妖精(ようせい)などのように、現実の世界にいても感覚ではとらえられないと信じられているものは「霊鬼」demonとよばれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)、ゼウス、ヤーウェなどのように、現世を超越しているが個性がはっきりして固有名詞をもっているものは「神」(ゴッドgod)と名づけられる。これらの精霊、霊鬼、神は、もともと別のものではない。人間生活と密接な関係をもっている自然物や自然現象はいうまでもなく、高山や大海原のように人間に対して神秘感を与えるものなどが、人間の禍福を左右する人格や意志をもつものとして表象されると、自然神として崇拝対象になることが多い。異宗教が接触し習合して、霊鬼が神に昇格することもあれば、逆に、神が霊鬼に格下げになることもある。日本の習俗で、三十三回忌(き)や50年祭が済むと「弔上(とむらいあ)げ」といって死霊が祖先神になると信じられたり、ヒンドゥー教の主神シバが仏教を守護する不動明王とされたりするのは、その好例である。したがって、宇野円空(うのえんくう)が、精霊、霊鬼、神などを一まとめにして「神霊」と名づけているのは適切である。
[藤田富雄]
日本では昔からカミホトケといって、神仏を一体と考える傾向があった。仏とは、覚者、すなわち非人格的な法を悟った人間のことで、けっして神と同一ではない。しかし、欲望に身をまかせて迷っていることと悟りを開くことを、人間の生と死の関係と同じように考え、人間は死ぬと欲望をもたぬから悟りを開いたのと同じ状態になるという素朴な思考が生まれた。そこで、人間は死ぬとホトケになり、弔上げが済むとカミになるとし、単純に神と仏を一体化して把握するようになったといわれる。本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想や反本地垂迹思想により、神仏が習合して一体となったという考え方もあるが、また、目に見えないカミの憑依(ひょうい)した依代(よりしろ)が、目に見えるホトケの救済力の具象化された像と同一視されたためであるという説もある。神と仏との関係は、このようにきわめて複雑で、まだ定説はない。
[藤田富雄]
神霊の数と性格によって、宗教を多神教、二神教、一神教、汎(はん)神教に大別する。日本の神道の八百万(やおよろず)の神々のように、多数の神々が信じられているのが多神教であるが、神々の恋愛、結婚、親子、家族、親族などの関係によって、ギリシア・ローマ神話や日本の記紀神話のような神統記theogonyという系図ができたり、社会的、政治的な原理に基づく主神を中心とした主従・上下の関係によって神会pantheonという神々の組織ができる。ギリシア宗教のゼウスのように、とくにかわらない主神が認められるのを単一神教henotheismとよび、インドのベーダの神々のように主神が交互に入れ替わるのを交替神教kathenotheismと名づけている。
二神教は、ゾロアスター教のアフラ・マズダーとアングラ・マインユ(アフリマン)のように、善悪二神の対立や支配を説くものである。一神教には、他の民族の信奉する神々には干渉しない民族的一神教と、他の諸神を否定して、民族の別なく世界にはただ一つの神しかいないと主張する普遍的一神教とがある。ユダヤ教は前者に、キリスト教、イスラム教は後者にあたる。個々の人格神ではなく、あらゆる実在の根源である抽象的な神性が、宇宙の万物に宿り、万物はその神性の現れであるとする宗教的、哲学的な見方が汎神教である。他宗教の諸神をすべて混合して、抽象的な万有神pantheosに帰したローマ帝政時代のシンクレティズムsyncretismや、インドのウパニシャッド哲学の梵我一如(ぼんがいちにょ)brahma-ātoma-aikyamなどは、その好例である。
神霊の本体によって、自然神と人間神とに分けられる。自然物や自然現象を神格化したのが自然神で、天・地・日・月・星・山・川・水・火・風・雷の神をはじめ、動植物の神もある。死者や祖先などの人間を神格化したのが人間神で、父神、母神、祖先神、英雄神などのほか、プロメテウスに代表される文化祖神もある。牧畜民族では天父神、農耕民族では大地母神の崇拝が多くみられる。
また、神霊の機能によっても分類できる。人間生活の一面だけに関係している職能神には、生老病死の神のほか、農業神、狩猟神、漁労神、商業神、工業神、航海神、武神、文神などの職業に関係する神や、縁結びの神、安産の神、交通安全の神などの日常生活に密着した神々が多い。氏神(うじがみ)、部族神、民族神などのように、特定の個人や集団の幸福を守るのが守護神であり、慣習を維持し、社会を統制するのが監視神である。さらに、創造神は、天地を創造して宇宙に目的と秩序とを与える。その支配力が絶大で、さまざまな神々の統一の中心になるのが至上神であり、直接に人事に関係しないときには隔絶神となることもある。
神霊の姿によって、人間形態神、植物形態神、動物形態神、半人半獣神、無形の神に分類することもできる。半人半獣神には、ギリシアのケンタウロスのように上半身が人間で下半身が馬の形をしたものもあれば、エジプトのホルスやセトのように頭が鷹(たか)や獣(けだもの)で人身の神もある。ユダヤ教やイスラム教では、神の姿をもので現すことを偶像崇拝として禁止しているので、神は形をもたない。
神霊は、特定の時代や場所で文化をもって生活を営んでいる個人や集団に、それぞれの形態で存在しているのであって、けっして抽象的にどの社会にも同じ形態で存在しているのではない。しかし、具体的にはそれぞれの社会の構成要素でありながら、社会全体を秩序づけ、意味づけ統合する役割を果たしている。たとえば、アステカの母神トナンツィンの信仰は、スペインの征服によって破壊されたが、この母神はキリスト教の聖母マリアと習合し、「グアダルーペの聖母」として再生した。この聖母はメキシコの守護聖母として崇敬され、メキシコ独立運動の象徴として機能したが、現在では広くラテンアメリカを統合する土着文化復興主義indigenismoの象徴となっている。
[藤田富雄]
信仰の立場から、神の存在を大前提にして、神とは何であるかを問うのは神学(教学)である。しかし、神学が大前提として肯定している神がはたして存在するか、どのようにして神を知ることができるかという疑問を、理性の立場から取り上げたのが宗教哲学である。その答えは神の存在の証明という形でなされ、その代表的なものは、本体論的証明、宇宙論的証明、目的論的証明である。このほか、道徳論的証明、歴史的証明、実用主義的証明などがあり、現在では体験的証明が有力で、分析哲学からの試みも注目されている。また、宗教学の立場では、神そのものは観察できないが、神を信じている人々が神をどのように考え、どのような行動をしているかは観察できるとし、だれでも観察できる事実に基づいて神観念を把握しようとしている。
[藤田富雄]
世界の諸宗教のなかでは、非人格的な力の系列に属する宗教よりも、人格的な神霊の系列に属する宗教のほうが多数である。しかし、同じ神霊についての理解の仕方も、他の宗教との接触によるだけでなく、自宗教の内部における社会、政治、経済などの変動に影響されて融合、分裂、競合、展開、衰退、消滅するものもある。一般に昔から変化しないと考えられている世界宗教の神観念においてでさえも、具体的な性格の神から抽象的な究極的価値を担う神へと、神観念の重点が移ってゆく傾向がみられる。
人格神の代表であるキリスト教を例としてみると、全知全能という特殊な能力をもった神から人間の生き方を指導する神へ、奇蹟(きせき)を行う神から啓示を与える神へ、支配者としての神から理想像としての神へと、神観念が変化していることは否定できない。自然科学が発達して自然界は自然法則に基づいて秩序正しく運動しているという考え方が常識となると、自然法則を破って奇蹟を行い、特定の人に恩恵を与える神は信じられなくなる。とくに最近の欧米における急進神学は、20世紀前半を風靡(ふうび)した神中心のバルト神学との対決を目ざし、伝統的ユダヤ・キリスト教の天に在(ましま)す父なる神の死を宣言し、神のないキリスト教を主張するまでになっている。この運動の背景には、神に誠実になろうとして神を求めれば求めるほど、宇宙を超越してそれを支配する人格神を否定せざるをえなくなるという逆説を示して、実存的な生き方を求める試みがあるし、キリスト教を非神話化して、究極的関心や存在の根拠というような術語で、新しく神を定義し直そうとする試みもある。このような傾向がしだいに展開してゆくと、神観念の人格性はますます失われ、抽象的な神性から仏教の法という非人格的な観念に近くなってくる。
それに対して、浄土教における阿弥陀仏(あみだぶつ)のような諸仏諸菩薩(ぼさつ)には、人格神の色彩が強く認められる。仏教の中心は非人格的な法であるが、法を悟った仏陀(ぶっだ)は、人間の側からみれば法の体得者であり、法の側からみれば法の体現者である。法の体得者としての法身仏(ほっしんぶつ)が永遠であれば、法の体現者としての現身仏(げんじんぶつ)も永遠であり、法が人格として現れるのは釈迦(しゃか)だけではなく、多くの仏陀がありうるはずである。このような考え方で生じたのが諸仏諸菩薩であるから、キリスト教とは反対に、非人格的なものが人格的なものへ移行しているといえる。
このように、神観念はけっして固定したものではなく、変化してやまないものである。日本の神観念はきわめて多義的であいまいであると批判されているが、非人格的、人格的な両面を包括できる寛容な性格をもつ神観念は、日本人の重層的で柔軟な思考から生まれたもので、一神教のように排他的でないという特徴がある。したがって、カミという語の使用にあたっては、その意味や内容を限定して、混乱を生じないように配慮する必要がある。
[藤田富雄]
『R・オットー著、山谷省吾訳『聖なるもの』(岩波文庫)』▽『R・R・マレット著、竹中信常訳『宗教と呪術』(1967・誠信書房)』▽『宇野円空著『宗教民族学』(1949・創元社)』▽『竹田聴州著『祖先崇拝』(1957・平楽寺書店)』▽『藤田富雄著『宗教哲学』(1966・大明堂)』▽『東北大学文学部日本文化研究所編『神観念の比較文化論的研究』(1981・講談社)』▽『山折哲雄著『神から翁へ』(1984・青土社)』