神谷宗湛(読み)カミヤソウタン

デジタル大辞泉 「神谷宗湛」の意味・読み・例文・類語

かみや‐そうたん【神谷宗湛】

[1553~1635]安土桃山から江戸初期にかけての豪商博多の人。豊臣秀吉保護を受け、中国朝鮮・南方諸国と交易千利休と交わり、茶人としても有名。茶会記録に「宗湛日記」がある。紙屋宗旦。

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精選版 日本国語大辞典 「神谷宗湛」の意味・読み・例文・類語

かみや‐そうたん【神谷宗湛】

  1. 安土桃山・江戸初期の豪商。寿貞の孫。紙屋宗旦とも書く。豊臣秀吉の保護のもとに、朝鮮、中国、シャムタイ)などと交易して巨富獲得。福岡藩各種産業の振興にも尽くした。茶の湯を好み、茶会記録「宗湛日記」がある。天文二〇~寛永一二年(一五五一‐一六三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神谷宗湛」の意味・わかりやすい解説

神谷宗湛
かみやそうたん
(1553―1635)

安土(あづち)桃山時代から江戸時代初期にかけての九州博多(はかた)の豪商。神屋、紙屋宗旦、宗丹などとも書く。代々博多に住む貿易商で、曽祖父(そうそふ)寿禎(じゅてい)は明(みん)から銀精錬の新技術を学び、石見(いわみ)大森銀山を経営して巨富を築いた。1569年(永禄12)大友・毛利氏の争いで博多が焼亡すると、父とともに肥前唐津(からつ)に移り、86年(天正14)出家して宗湛と号した。翌年豊臣(とよとみ)秀吉が博多の復興を計画すると、島井宗室(そうしつ)とともに召し出され、復興事業に力を尽くした。宗湛は茶道にも通じ、千利休(せんのりきゅう)、津田宗及(そうきゅう)らとも交わり、秀吉もしばしば茶会に彼を招いた。秀吉の朝鮮出兵にあたっては、名護屋(なごや)にあって軍需物資の調達輸送などにあたった。関ヶ原の戦い後、黒田家が領主として入国すると、もっとも有力な御用商人として登用され、また櫨蝋(はぜろう)の生産、鉱山開発、博多そうめん、博多織など藩内の産業開発にも貢献したといわれる。『宗湛日記』は彼の茶会記録であるが、当時の豪商を理解するための史料としても重要である。

[村井益男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神谷宗湛」の意味・わかりやすい解説

神谷宗湛
かみやそうたん

[生]天文20(1551).博多
[没]寛永12(1635).10.28. 博多
安土桃山時代,江戸時代初期の豪商,茶人。紹策の子。紙屋 (こうや) 宗旦とも書き,幼名善四郎,字は貞清。神谷家は筑前博多の商人で3代目の寿貞が石見銀山の開発に成功して富をなした。天正 15 (1587) 年大坂城で豊臣秀吉に謁見してその寵を得,特権的政商として朝鮮,中国やルソン,シャムなどとの南洋貿易を行い巨利を博した。さらに産業開発にも意をそそぎ,櫨 (はぜ) による製ろう法,博多そうめんをも創製し,冶金法,織物にも貢献した。彼の手記『宗湛日記』は当時の茶会記録として著名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神谷宗湛」の解説

神谷宗湛 かみや-そうたん

1553-1635 織豊-江戸時代前期の豪商,茶人。
天文(てんぶん)22年1月1日生まれ。代々筑前(ちくぜん)(福岡県)博多で貿易商をいとなむ。天正(てんしょう)14年出家。翌年豊臣秀吉の大茶の湯にまねかれ,千利休らとまじわる。秀吉の命で博多の復興につくす。のち櫨蝋(はぜろう)の生産,鉱山開発など福岡藩の産業開発に貢献。寛永12年10月28日死去。83歳。字(あざな)は貞清。通称は善四郎。姓は神屋,紙屋,号は宗旦,宗丹ともかく。日記に「神谷宗湛日記」。

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367日誕生日大事典 「神谷宗湛」の解説

神谷宗湛 (かみやそうたん)

生年月日:1553年1月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の筑前博多の豪商;茶人
1635年没

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