福吉村(読み)ふくよしむら

日本歴史地名大系 「福吉村」の解説

福吉村
ふくよしむら

[現在地名]溝口町福吉

北流する野上のがみ川に合流する藤屋ふじや川下流域の村で、北東は三部さんぶ村。初め外構とがまえ村と称した。城山しろやまに土豪進氏の居城(外構城)があり、鎌倉山かまくらやま(現西伯町)の出城(外構)の役割を果したのが村名由来という(日野郡史)。文政六年(一八二三)福吉村と改称(藩史)。拝領高は七八石余、本免は六ツ。小原氏(慶応四年に大原氏と改姓)の給地であった(給人所付帳)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高九四石余、家数一七・人数七九、牛八、三部村鎮座の日光東照大権現の社領五石余があった。文政一三年(一八三〇)の高九六石余、物成四一石余、米子御蔵へ納入すべき三歩一米は不明(在方諸事控)。天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)では家数一三・人数四二、馬二・牛一。


福吉村
ふくよしむら

[現在地名]勝央町福吉・太平台たいへいだい

勝間田かつまだ村の西約一里、黒坂くろさか村の泣き清水といういわれのある分水嶺を越えた小盆地の北部に立地。西はいけはら(現津山市)。古くはすえ村と称したが、文政元年(一八一八)の津山領郷村帳に福吉村とあり、この頃改称したものか。「東作誌」では当村のほか黒坂村為本ためもと村、池ヶ原村・堂尾どうのお(現津山市)を含めて鷹取たかとり庄と称しているが、同庄名は中世以来のもので、永享一二年(一四四〇)三月一二日の足利義教御教書(赤松家文書)で「高鳥庄」などが赤松教貞に与えられている。


福吉村
ふくよしむら

[現在地名]三朝町福吉

小河内おごち村の南方、加茂かも川の源流部に位置する。もとは笏賀つが村の枝村で畑開はたびらき村・はた村とよばれたが、安政六年(一八五九)領内限りで福吉村と改称(藩史)幕末の六郡郷村生高竈付には筒賀(笏賀)のうち、近年別村になると注記され、生高二四石余、竈数七。木地師によって開発されたといい、畑開・畑の地名も近江国小椋六おぐらろつはたの一つきみはた(現滋賀県永源寺町)にちなむという。蛭谷ひるたに(現同上)氏子狩帳(筒井神社文書)には寛政一二年(一八〇〇)・天保四年(一八三三)に河村郡筒賀村畑山木地挽としての記載がある。


福吉村
ふくよしむら

[現在地名]社町福吉佐保さほ

加古川左岸に位置し、北西は上田うえだ村。元禄郷帳では村名に「古ハ仁我井村」との注記があり、かつては仁我井にがい村、あるいは仁我木にがき村と称されていた(加東郡誌)。仁義井村とも記された(元禄一四年「浅野赤穂分家済美録」浅野家文書)。「三代実録」元慶六年(八八二)一二月二一日条によると、「播磨国賀古郡野、印南郡今出原、印南野」などとともに「賀茂郡宮来河原、爾可支河原」がすでに皇室領の禁野となっていたが、今回重ねて禁断の地とすることが命じられている。ここにみえ爾可支にかき河原を福吉の旧名仁我木(仁我井)に比定する説がある。


福吉村
ふくよしむら

[現在地名]西区福吉台ふくよしだい一―二丁目・上新地かみしんち一―三丁目

秋田あきた村の南にある。明石藩の開墾策によって開発された新田村でもとは同村のうちであったが(明石記)、江戸中期以降に分村して独立。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」に村名がみえ、東西四町半・南北一町半。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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