福島宿
ふくしましゆく
奥州道中の宿で、板谷峠越の米沢街道、土湯峠を経て会津と結ぶ福島街道、阿武隈川を渡り相馬と結ぶ中村街道が分岐するほか、阿武隈川には福島河岸・舟場河岸が置かれるなど交通の要地であった。南の間の宿清水町宿まで一里三四町、北の瀬上宿まで二里八町(元禄一六年「福島村明細帳」福島市史)。当宿は福島城下の奥州道中に沿う本通(表通)七町、すなわち福島城の西側から北側にかけての柳町・荒町・中町・本町・上町・北南町・馬喰町で構成された。長さ一七町一五間(一七町一三間とも)に及び、町並は中央に街心堀をもつ幅六間の奥州道中を挟み、両側に平均奥行二五間、間口三―六間ほどで短冊形に地割されていた(「福島市史」など)。宿の成立時期は明確ではないが、当地には中世の杉妻城(大仏城)を引継ぎ、文禄二年(一五九三)頃から福島城および城下の整備が進められており、街道・宿の整備もこの頃からと考えられる。
福島宿
ふくしましゆく
[現在地名]木曾福島町上町・本町
木曾谷の中央にあたり、また木曾代官山村氏のお膝元として、木曾十一宿中最も栄えた宿場町で、宝暦三年(一七五三)の「千曲之真砂」には「町の入口に関所有り、横川のことく女人并鉄砲を改む、山村甚兵衛様御預り也、それより町に入る、此町は数百軒立つゝき、木曾一番繁昌成地也」とあり、文化二年(一八〇五)の「木曾路名所図会」にも「宮越まで一里半。駅中東西七町、相対して巷をなす。其余山間に散在す。木曾谷中第一の豊饒の地なり」とその繁栄ぶりを記している。
宿の成立は古く、永禄一一年(一五六八)相模海蔵寺住僧に対して武田氏が甲府から福島まで伝馬七匹を与える某朱印状案(相州文書)が残されていることと、亀子氏諸事留書帳(亀子文書)に「福島町縄張永禄中、木曾伊予守義昌公時代」とあることなどから、永禄年間に宿駅が成立していたことがうかがわれる。
福島宿
ふくじましゆく
[現在地名]須坂市福島町
千曲川右岸を通る北国脇往還松代通の宿である。松代通五宿の中間で、南は川田宿、北は布野ノ渡で長沼宿へ通じる。慶長一六年(一六一一)九月、上越・北信を支配した松平忠輝によって設けられた(「伝馬宿書出」斎藤宗三郎氏蔵)。
布野ノ渡からの道は、堤防を下り東行し、枡形をなして南方へ抜け、約六〇〇メートルの町並をなし、中央に用水堰を設ける。なお堤防沿いに裏道が平行し、南端で本道に合する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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