日本歴史地名大系 「竜口」の解説
竜口
りゆうぐち
寛治二年(一〇八八)の伊賀国司庁宣案(東大寺文書)には「竜口并鷹尾山御鷹者、是国衙之進退也、然郡司近国(中略)公用之支甚以莫大也、然則任所望之旨、彼両所并鷹栖等令免除畢、(中略)可為近国之私領也」とある。これによると、竜口は伊賀国衙領であったが、郡司近国が国衙への功績が大きかったので鷹栖(巣)のある
この竜口の四至については同庁宣案に「四至限東国見峰際 限西足宇土河々 限南檜皮峰南谷小河 限北杣道々」とある。このうち西を限る足宇土河は、現室生村大字竜口に小字アショウズがあり、
この間、興福寺は大和国側(大野庄)から、東大寺は伊賀国(黒田庄)から竜口へ支配勢力を伸ばしてくる。すなわち、大治四年(一一二九)に次いで天承元年(一一三一)には再度興福寺の支配が伸びてきた。同年の伊賀国司庁宣案(東大寺文書)には、名張郡司・百姓らに対して「彼庄住人等越往古之堺、国領之地竜口村発来、致乱行」との訴えに基づき、「可令早停止伝法院領大野庄住人乱行事」と命じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報