竹久夢二(読み)タケヒサユメジ

デジタル大辞泉 「竹久夢二」の意味・読み・例文・類語

たけひさ‐ゆめじ【竹久夢二】

[1884~1934]画家・詩人。岡山の生まれ。本名、茂次郎。大きな瞳に愁いをたたえた、夢二式美人は一世を風靡ふうびし、多数の詩画集を世に送った。「宵待草」の作詩者としても有名。

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共同通信ニュース用語解説 「竹久夢二」の解説

竹久夢二

竹久夢二たけひさ・ゆめじ 岡山県生まれの画家、詩人。雑誌や新聞に絵や詩を投稿して世に出た。浪漫ろまん主義を受け継ぎながら耽美たんび的で異国趣味を帯びた独特の作風で、表情に哀愁のある女性像は「夢二式美人」として大正期の大衆から支持された。叙情性に富んだ詩でも知られた。東京・日本橋に開いた店で千代紙など小間物の図案も手掛け、商業デザインの先駆けにもなった。

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精選版 日本国語大辞典 「竹久夢二」の意味・読み・例文・類語

たけひさ‐ゆめじ【竹久夢二】

  1. 画家、詩人。岡山県出身。本名、茂次郎。感傷的な詩文・挿絵をかき、その美人画は夢二式と呼ばれて、明治末から大正にかけて大いに流行した。画集「春の巻」「夏の巻」、詩歌集「どんたく」など。明治一七~昭和九年(一八八四‐一九三四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹久夢二」の意味・わかりやすい解説

竹久夢二
たけひさゆめじ
(1884―1934)

画家、詩人。明治17年9月16日、岡山県邑久(おく)郡本庄(ほんじょう)村(現、瀬戸内市邑久町)の酒屋に生まれる。本名茂次郎。神戸中学校を1年生で中退、一家は九州八幡(やはた)(現、北九州市)に移るが、夢二は家出して上京し早稲田(わせだ)実業学校に入る。1905年(明治38)同校本科3年を卒業して専攻科に進み、荒畑寒村(あらはたかんそん)らと交友、また白馬(はくば)会洋画研究所に通う。同年、『中学世界』に投稿のコマ絵、『ハガキ文学』に応募の図案が入賞し、学校を中退する。また島村抱月(ほうげつ)主宰の『東京日日新聞』の「月曜文壇」や『早稲田文学』ほかでも活躍。1907年、日刊『平民新聞』に風刺的コマ絵や川柳(せんりゅう)などを寄せ、また新婚のたまき夫人をモデルにいわゆる夢二式美人を創始した。1909年の『夢二画集 春の巻』以後、夢二画集や詩画集を続々と刊行して世の青春層を魅了し、また『どんたく』に収められた短詩『宵待草(よいまちぐさ)』は、のち夢二が多数装丁したセノオ楽譜の一冊として刊行され、全国に普及した。

 1914年(大正3)日本橋に港屋を開き、夢二デザインの日常生活の品々に独自のアール・ヌーボー式を示した。1916年京都に移り、翌1917年から笠井彦乃(ひこの)と暮らし、1918年春、京都府立図書館で2回目の個展を開き、日本画、油絵、パステルに南蛮・異国趣味、郷愁の詩人画家ぶりを示す。帰京後、最愛の彦乃への恋歌集『山へよする』を刊行ののち、お葉との時代が始まる。1931年(昭和6)アメリカからヨーロッパへの旅に出るが、1933年病を得て帰国し、榛名(はるな)山産業美術学校建設の夢を果たせず、翌昭和9年9月1日信州の富士見高原療養所で肺結核により没。代表作は『黒船屋』『長崎十二景』『青春譜』『立田姫(たつたひめ)』『旅』ほか。岡山市中区に夢二郷土美術館本館、生地の邑久には夢二郷土美術館分館(夢二生家と復原されたアトリエ「少年山荘」)があり、群馬県渋川(しぶかわ)市伊香保(いかほ)地区に竹久夢二伊香保記念館がある。

[小倉忠夫 2017年1月19日]

『長田幹雄編『竹久夢二画集』(1972・講談社)』『木村重圭解説『現代日本美人画全集8 竹久夢二』(1978・集英社)』『岡崎まこと著『竹久夢二正伝』(1984・求龍堂)』『河北倫明他編『夢二美術館』全5巻(1985・学習研究社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「竹久夢二」の意味・わかりやすい解説

竹久夢二 (たけひさゆめじ)
生没年:1884-1934(明治17-昭和9)

画家,詩人。本名茂次郎。岡山県邑久(おく)町に生まれる。早稲田実業学校中退。新聞,雑誌にコマ絵を描き,新進画家として世に出た。荒畑寒村らとも親しく,平民社の機関誌《直言》に挿絵を描いたが,露骨な世相風刺を好まず,むしろ哀愁にみちた表現であった。夢二の本領は時代の生活感情を反映しながらも,藤島武二や青木繁の浪漫主義を受けつぎ,それに世紀末的耽美(たんび)主義,懐古趣味,異国趣味を盛った表現にあった。漂泊の人生を送り,郷愁と憧憬を日本画,油絵,水彩画,木版画にあらわし,詩や童謡にうたった。つぶらな瞳の愁いを帯びた“夢二式美人”は多数の夢二画集や雑誌を通して,大正期の大衆の心をとらえ,1913年作の《宵待草》の歌は大流行した。しかし,生前は,独学の大衆画家であるゆえに画壇からは無視され,正当な評価を得たのは第2次大戦後である。1914年東京・呉服橋に〈港屋〉を開き,自ら千代紙や半襟などの小間物の図案を手がけ,楽譜のデザインをするなど,生活美術,商業美術の先駆者でもあった。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「竹久夢二」の解説

竹久 夢二
タケヒサ ユメジ

明治・大正期の画家,詩人



生年
明治17(1884)年9月16日

没年
昭和9(1934)年9月1日

出生地
岡山県邑久郡本庄村(現・邑久町)

本名
竹久 茂次郎

学歴〔年〕
早稲田実業専攻科中退

経歴
一時文学の道を目ざすが絵画に転じ、藤島武二の作品にあこがれ号を夢二とする。平民新聞の諷刺画で知られ、24歳のとき結婚した最初の妻・他万喜(たまき)らをモデルに眼の大きな女性を描き、夢二の美人画として一世を風靡した。昭和6〜8年欧米に旅行。代表作に「切支丹破天連渡来之図」、詩画集に「夢二画集」「どんたく」「昼夜帯」「露台薄暮」、詩歌集に「歌時計」「夢のふるさと」などがある。ポスターなどのグラフィック・デザインにもすぐれたものがある。没後もファン層は厚く、ドラマや映画にしばしば取り上げられている。平成6年には油彩画が、9年には日本画一点が、11年には商業デザイン450点が新たに発見された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹久夢二」の意味・わかりやすい解説

竹久夢二
たけひさゆめじ

[生]1884.9.16. 岡山
[没]1934.9.1. 長野
画家,詩人。酒造家に生れた。本名,茂次郎。 1901年上京して早稲田実業学校に学び,05年卒業。少年少女雑誌に浪漫的な挿絵や詩を発表して注目された。その後も挿絵,詩文,本や雑誌の装丁に異色ある芸術的天分を発揮し,目が大きく夢みるように憂愁をたたえた夢二式美人を描き,その独自の感傷性豊かな抒情的表現は,大正期の青年子女に多大な影響を及ぼした。また 14年日本橋に港屋を開店して自作の絵はがきや千代紙などを売った。 31~33年アメリカ,ヨーロッパを旅行,帰朝後過労のため結核にかかり,長野県の富士見高原の療養所で没した。『長崎十二景』 (1920) ,『女十題』 (21) ,『黄八丈』 (29頃) などが代表作。ほかに詩画,詩歌集が五十余種あり,『宵待草』の作詩者としても有名。

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朝日日本歴史人物事典 「竹久夢二」の解説

竹久夢二

没年:昭和9.9.1(1934)
生年:明治17.9.16(1884)
明治から昭和にかけての画家,詩人,デザイナー。岡山県生まれ。本名は茂次郎。荒畑寒村の推薦で平民社機関紙『直言』に挿絵を描いたのをはじめ,『中学世界』や『平民新聞』などに挿絵や詩をかく。さみせんぐさの名で「宵待草」の原詩を発表した。藤島武二のモダンな装飾性と鏑木清方の美人画から影響を受けた夢二の美人画は,挿絵ばかりではなく絵葉書,封筒,半えりのデザインにもされた。『夢二画集』や詩集『どんたく』などの詩,画集,詩画集などが50種ほど出版された。女性遍歴の愛欲生活のなかで憂愁な女性像を描く一方で,社会底辺の女性や女性問題などもリベラルにみていた。関東大震災時には,「震災スケッチ」を残してもいる。岡山市と群馬県伊香保の地に各々夢二の美術館がある。

(尾崎眞人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「竹久夢二」の意味・わかりやすい解説

竹久夢二【たけひさゆめじ】

画家,詩人,デザイナー。本名茂次郎。岡山県に生まれ,神戸一中,早稲田実業に学んだが,絵を志して雑誌,新聞にさし絵や詩を寄稿。目の大きい哀愁に満ちた表情の女性像は,《宵待草》などの抒情的な詩とともに,大正期前後の青年を魅了した。作品に《女十題》《長崎十二景》など。岡山市と群馬県伊香保に夢二美術館がある。
→関連項目伊上凡骨恩地孝四郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹久夢二」の解説

竹久夢二 たけひさ-ゆめじ

1884-1934 明治-昭和時代前期の画家,詩人。
明治17年9月16日生まれ。38年ごろから挿絵画家として活躍,独特の美人画のほか「宵待草」などの叙情詩で人気を博す。大正3年東京に趣味の店港屋をひらき,商業デザインも手がけた。昭和9年9月1日死去。51歳。岡山県出身。本名は茂次郎。歌集に「山へよする」,画集に「春の巻」,詩画集「どんたく」など。
【格言など】人形よ人形よ,もうおん身に決してよき母たれと言わない(妻たまきへの手紙)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「竹久夢二」の解説

竹久夢二
たけひさゆめじ

1884.9.16~1934.9.1

明治・大正期の画家・詩人。岡山県出身。本名茂次郎。1905年(明治38)早稲田実業学校本科卒。09年最初の画集「夢二画集春の巻」で一躍有名になる。14年(大正3)東京・呉服橋に自作を扱う絵草紙店「港屋」を開く。31~33年(昭和6~8)欧米旅行。大正デモクラシーの時代に詩人としても活躍し,「宵待草」など多くの抒情詩を作る。作品「黒船屋」「切支丹破天連渡来之図」。

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367日誕生日大事典 「竹久夢二」の解説

竹久 夢二 (たけひさ ゆめじ)

生年月日:1884年9月16日
明治時代;大正時代の画家;詩人
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の竹久夢二の言及

【エロシェンコ】より

…1914年,日本エスペラント協会の中村精男(中央気象台長)をたよって来日,東京盲学校特別研究生となり,また日本の盲人の生活を知るためにあんま術を学ぶ。秋田雨雀,大杉栄,中村彝(つね),竹久夢二,小坂狷二,相馬黒光,神近市子,片上伸らと交友,日本語による口述筆記で作品を発表した(処女作《提灯の話》1916)。16年,来日していたインドの詩人タゴールに会い,本能的な放浪者であったエロシェンコは東洋の他の弱小民族の生活を知るためにタイ,ビルマ(現ミャンマー),インドに旅立つ。…

【邑久[町]】より

…岡山市に隣接する西部はベッドタウン化が進んでいる。本庄には竹久夢二の生家があり,郷土美術館になっている。余慶寺には重要文化財の木造薬師如来座像などがある。…

※「竹久夢二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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