1804-14年にフランスのナポレオン1世が支配した帝国。国際的に承認されなかったため百日天下(1815年3~6月)の時期はここに加えない習慣である。
テルミドール9日のクーデタ以後,政治の主導権を握った共和派ブルジョアは社会的安政を志向し,総裁政府は均衡政策をもってこの社会的志向にこたえようとしたが,反革命的王党派とブルジョア,民衆を基盤とする共和派の対立に悩み,総裁政府の中心になる政治家はナポレオンの武力をもって1799年11月,ブリュメール18日のクーデタを遂行した。新憲法起草の過程においてナポレオンはすでに主導権を握り,成立した執政政府の第一執政となり,社会防衛の強力政府をつくることを公約した。ブルジョア層をはじめ国有財産購入者,封建的支配から解放された農民層は,旧制度の復活を意図する王党派の支配を歓迎せず,執政政府に支持をおくり,新憲法は国民投票で承認された。ナポレオンの独裁の承認といってもよい。1801年,オーストリアとリュネビル条約,ピウス7世と宗教協約を,02年イギリスとアミアンの和約を結んで対外関係を固めるとともに,護民院,立法院から反対勢力を追放し,同年には終身執政となり,執行権を強化した。04年には3年間の検討をへてナポレオン法典を完成する。暗殺陰謀の発覚を機に元老院は世襲皇帝に推戴し,同年12月2日ノートル・ダム大聖堂でピウス7世臨席のもとに戴冠式をあげ,国民投票で圧倒的支持を受けて,第一共和政はここに終わり,第一帝政が出発した。
18世紀末フランスの人口は2700万~2800万といわれ,83県であったが,いまライン左岸,イタリア北部などを併合し,120県,人口4000万の〈大国民〉となり,100万以上の徴兵が可能となった。ナポレオン法典は家父長制を強調し,遺産の自由分割権,女性の従属性などにより軍国主義の性格をおびたものの,革命によって建設された近代市民社会の原理を定着させた。独裁支配を強化するためいくつかの議会も諮問機関に等しいものとし,07年には護民院を廃止した。新聞・出版物の検閲,労働者の監視制度などは執政時代からの継続であるが,一方では1806年教育組織を編成して全国の各級学校を統一指導のもとにおき,教育の中央集権化をはかった。国家財政についてみると,ナポレオンは執政就任のときから大銀行家の支持をとりつけており,1800年にはフランス銀行を設立し,国家に対する貸付けを容易にすることとし,税制については間接税主義を採用し,収税機関を強化した。さらに戦勝による外国からの償金,従属国からの軍備補償費などで軍事費を補い,〈戦争は戦争をやしなう〉という原則を守ろうとした。フランスでは革命前から工業の技術革新が開始されていたが,アミアンの和約が破棄されたころからナポレオンは工業の生産力増強に意欲を示し,〈国民産業奨励協会〉を設立して技術と工業の共同組織化をはかり,技術学校設立,共進会開催,賞金設定などによって産業の育成にあたった。征服による市場拡大とか軍需生産の増強もフランス産業の発展を助けた。農業においてはフランドル式輪作制度を推進し,大陸封鎖の期間には染色植物やテンサイの栽培が行われたが,制度的には08年に農業法が制定され,共同体的慣行に対しては制約を加えた。このようにして第一帝政は1804-10年の間,06,07年の不況を除いて経済繁栄に恵まれ,全盛期を迎えたが,10年以後経済局面は悪化し,ヨーロッパ諸国の解放戦争に直面しなければならなかった。
1802年アミアンの和約がフランスとイギリスによって結ばれ,第二対仏大同盟は解体し,ヨーロッパには1年あまりの平和が訪れた。しかしヨーロッパ国際関係からみると,フランスにとって最大の難敵は資本主義先進国イギリスであり,05年ナポレオンはイギリス本土上陸作戦を企てブーローニュに大軍を結集したが,制海権を握ることができず,第三対仏大同盟が結成され,フランス軍がドイツに侵入している間にフランス艦隊はトラファルガーの海戦に敗れてしまった。ナポレオンはウィーンを占領し,アウステルリッツの会戦(三帝会戦)にロシア,オーストリア同盟軍を撃破し,ウィーン(シェーンブルン)会議で全イタリア半島の支配権を承認させた。06年,ナポレオンの保護下にドイツ小国家はライン連邦をつくって神聖ローマ帝国を崩壊させ,プロイセンに遠征したとき,ベルリンにおいていわゆる大陸封鎖令を発し,イギリス商品に対し大陸市場を閉鎖した。これはイギリス産業の支える国力を奪う手段と考えられたが,その後この大陸体系をめぐりさらに戦争は続けられた。07年ロシア軍を圧迫してワルシャワ大公国を設立したが,一方ポーランド遠征軍はスペインまで侵略し,ここに半島戦争が開始され,そのさなか07年9月に開かれたエルフルト会議は,ロシアとの協定のために行われたが成果をあげなかった。この時期が第一帝政の絶頂といわれる。やがてフランスは130県となり,親族と部将を配した7王国,30の大公国,その他の同盟国がヨーロッパ大陸をおおうことになった。しかし大陸諸国には民族意識が高揚し,国内改革に乗り出し,同時にフランスに対する抵抗を強めた。このため09年にはオーストリアに出兵してワグラムの戦勝をもって講和し,翌年ナポレオンはオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚した。フランスは不況にみまわれ,12年のロシア遠征は惨たる敗北に終わった。13年になるとドイツ解放戦争が開始され,大同盟軍はフランスに侵入し,パリを占領したため,14年ナポレオンはエルバ島に退き,5月フランスにはブルボン王朝のルイ18世が即位した。15年3~6月ナポレオンは帰国したが,ワーテルローの戦に敗退し,セント・ヘレナ島に流された。このようにして第一帝政はナポレオンの軍事的独裁によってフランス革命の社会的成果を固定させたが,文化を自由に発展させることはできなかった。しかし宮廷からは〈アンピール様式〉があらわれ,反ナポレオン的なシャトーブリアン,スタール夫人の文学がある意味で時代の意識を代表していた。
執筆者:井上 幸治
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第一帝制とも書く。フランスの、1804年5月から14年3月までのナポレオン1世の皇帝政治。あるいは、百日天下を加え、15年6月まで、とする見方もある。ナポレオンは1799年11月、クーデターにより政権を握って以来、フランス革命の遺産相続人として、内に民法典を編纂(へんさん)し、外に自由、平等の旗を翻し、解放戦争の名による外征を強行した。第一帝政10年間は、まさに彼の軍事的天才の縦横に発揮された、フランスの栄光の世紀ということもできる。ロマン派の文学者ミュッセは次のように第一帝政時代の世界風景を伝えている。「このとき、ヨーロッパにはただ1人の人間だけが生きていた。残りの人たちは、彼の呼吸する空気で肺臓を満たしていた」。
[金澤 誠]
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…フランスの第二共和政のあと1852年12月ナポレオン3世の即位から70年9月普仏戦争の敗北による崩壊まで続いた政治体制で,ナポレオン1世の第一帝政(1804‐14)に対していう。
[政治]
第二共和政の大統領であったルイ・ナポレオンは,1851年12月2日クーデタによって議会を解散し,52年12月2日皇帝ナポレオン3世となり,ここに第二帝政が成立する。…
※「第一帝政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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