箕輪城跡(読み)みのわじようあと

日本歴史地名大系 「箕輪城跡」の解説

箕輪城跡
みのわじようあと

[現在地名]箕郷町西明屋 城山

榛名はるな山東南斜面を流下するしら川と井野いの川に東と西を挟まれた台地(標高二七三メートル)に立地し、西北―東南方向、長さ一千七〇〇メートル、幅七〇〇メートルの範囲に構築された平山城。南に椿名つばきな(現在は水田)を箕手状に抱えこんでいたので箕輪の名がある。城郭は中央の大堀切(上幅四〇メートル)によって南北に分れ、北部は本丸(一〇〇×五〇メートル)を中心に二ノ丸(四〇×三〇メートル)・御前郭(六〇×六〇メートル)などの中心郭が配置され、さらに北の低地部分には折郭があり、丸馬出で連結している。南側は木俣郭・法峰寺郭などがあり、二ノ丸と木俣郭は郭馬出で接続している。この南の諸郭と白川との間の低地には城下町が形成されていた。

築城者は石上姓の長野氏である。長野氏は榛名山東南麓に広がる長野ながの郷を本拠地とし、関東管領山内上杉氏の支配下にあった上野の国人一揆である上州一揆の旗頭(松陰私語)として、一五世紀中葉以降勢力を拡大し、戦国時代には一揆の成員である小幡倉賀野和田大戸(浦野)らの各氏を、婚姻関係に基づく目下の同盟者として組織し(簑輪軍記)、西上野の一大勢力となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「箕輪城跡」の解説

みのわじょうあと【箕輪城跡】


群馬県高崎市箕郷町にある城跡。榛名白(はるなしら)川に削られた河岸段丘上にあり、西は榛名白川の約20mの断崖が、南は榛名沼の沼地が、ともに天然の堀となっている。城域は東西約500m、南北約1100mに及び、低い尾根に沿って郭(くるわ)が並び、現在残る遺構は、石垣・土塁・空堀の跡などである。1512年(永正9)に当地を支配した長野氏によって築かれたといい、1566年(永禄9)に落城するまでは長野氏の居城であった。戦国時代の上野国(こうずけのくに)は相模(さがみ)を本拠とする後北条氏や甲斐の武田氏、越後の上杉氏らが侵攻を繰り返す場であったが、関東管領上杉憲政(のりまさ)の重臣であった長野氏は越後の上杉氏の後ろ盾を得ていたこともあり、長野業正(なりまさ)は箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、武田信玄のたびたびの侵攻を跳ね返した。しかし、業正が死んでその子・業盛(なりもり)の代になると、信玄は西上野への侵攻を開始する。箕輪城は総攻撃を仕掛けられ、上杉謙信援軍もなく、業盛は自刃して落城した。こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点となり、有力家臣が城代として入った。1582年(天正10)、天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、北条氏邦(うじくに)が侵攻したが織田信長の家臣・滝川一益(かずます)に追われる。しかし本能寺の変で信長が倒れると、一益を破った氏邦がふたたび入城した。そして1590年(天正18)、豊臣秀吉の小田原攻めの折に、前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃によって開城した。同年、徳川家康が関東に入ると、箕輪城は井伊直政に与えられ、直政は城郭を改造したが、1598年(慶長3)に直政が高崎城に移封されたため、箕輪城は廃城となった。JR東北新幹線ほか高崎駅から群馬バス「城山入口」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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