篠原庄(読み)しのはらのしよう

日本歴史地名大系 「篠原庄」の解説

篠原庄
しのはらのしよう

多家良たから町・丈六じようろく町・方上かたのかみ町付近に比定される庄園。「和名抄」記載の勝浦郡篠原郷の系譜を引くとみられる。「仁和寺御伝」治暦二年(一〇六六)五月二五日条に「阿波国篠原庄」とあり、尾張国堤田つつみた庄とともに二条関白藤原教通から孔雀経法を修して病気を平癒させた報恩として京都仁和寺(性信入道法親王)に寄せられた。仁和寺領となる以前は摂関家領であったとみられる。「御堂相承記」によれば、応徳二年(一〇八五)九月二七日に入滅した性信入道親王の遺骨は紀州高野山に納められ、灌頂堂が建立されて遠忌の結縁灌頂用途には当庄の年貢が充てられた。「中右記」元永元年(一一一八)九月一日条には「宮庄」とみえており、「本冷泉院庄免田十一町、不指四至、而次第伝領寄二条関白之時成卅七町也、後代々国司依卅七丁免来也」とあることから、元来冷泉院の庄免田一一町であったものが、教通領となるに際し三七町に増加し、代代国司の免判を受けてきた。したがってこの時期当庄は三七町の浮免であった。ところが元永元年には、仁和寺が当庄を立券する際勝浦郡の四至を注載し、加納田や山野一千五、六〇〇町を庄域に組入れ押領したとして、国司藤原尹通が訴え出ている(同書同年七月二五日条)


篠原庄
しのはらのしよう

大篠原おおしのはら小篠原こしのはら一帯にあったとみられる庄園。正中二年(一三二五)の承鎮法親王付属状(三千院文書)に坂本日吉社領の篠原庄がみえる。また同庄は京都尊勝そんしよう寺領でもあると記される。これ以前、元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」には「篠原三百歳」がみえる。同所は日吉社の八ヶ度御戸開内陣御供料所で御神楽田と号され、奉行は権祝友仲。当時八夫やぶ(現中主町)河田かわだ(現守山市)地頭に押領され、神役は有名無実となっていた。

室町期以降当地内の一部が上永原かみながはら・永原を本貫地とする永原氏領となったらしい。長禄三年(一四五九)には永原氏の所領が没官された際中島氏の違乱を受け、京都相国しようこく常徳じようとく院主を通して幕府に訴えた結果、永原氏に安堵されている(「蔭涼軒日録」同年五月一二日、一二月八日条など)


篠原庄
しのはらのしよう

篠原しのばら一帯に比定される。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)に庁分御庄として甲斐国篠原がみえる。八条院とは鳥羽法皇の皇女子のことで、父から与えられた膨大な所領は春華門院―順徳天皇(後鳥羽院管領)―後高倉院―安嘉門院―亀山院―後宇多院―昭慶門院―後醍醐天皇と伝領され、南朝の財政的基盤の中核となった。甲斐源氏の奈胡義行は八条院蔵人となっている(尊卑分脈)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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