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斎藤隆夫 さいとう たかお

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美術人名辞典の解説

斎藤隆夫

政治家。兵庫県生。号は天城。専門学校卒。アメリカに留学、帰国後弁護士となり、大正元年衆議院議員に当選。以後当選十三回。憲政会・民政党に属し昭和に入るとファシズムに抵抗する議会活動を展開した。昭和24年(1949)歿、80才。

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デジタル大辞泉の解説

さいとう‐たかお〔‐たかを〕【斎藤隆夫】

[1870~1949]政治家。兵庫の生まれ。憲政会民政党に所属。二・二六事件直後の粛軍演説などで軍を批判、昭和15年(1940)議会から除名された。第二次大戦後は進歩党の結成に参加、第一次吉田片山両内閣で国務相

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百科事典マイペディアの解説

斎藤隆夫【さいとうたかお】

大正・昭和の政治家。兵庫県の生れ。米国留学後弁護士になる。1912年以後衆議院議員に当選13回,立憲国民党立憲同志会・憲政会・民政党に所属。二・二六事件直後の議会で粛軍演説を行い,1940年2月反軍演説を行って議会から除名された。
→関連項目粛軍米内光政内閣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

斎藤隆夫 さいとう-たかお

1870-1949 明治-昭和時代の政治家。
明治3年8月18日生まれ。弁護士を開業。明治45年衆議院議員(当選13回)となる。昭和11年二・二六事件後,粛軍演説をおこなう。15年日中戦争の処理方針を批判する反軍演説で議員を除名された。戦後,日本進歩党の結成に参加。第1次吉田内閣,片山内閣の国務相を歴任。昭和24年10月7日死去。80歳。但馬(たじま)(兵庫県)出身。東京専門学校(現早大)卒。著作に「帝国憲法論」「比較国会論」など。
【格言など】(日華)事変処理の内容を充実するにあらざれば,出征の将士はいうにおよばず日本全国民は断じてこれを承知するものではない(議員除名のもととなった演説)

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世界大百科事典 第2版の解説

さいとうたかお【斎藤隆夫】

1870‐1949(明治3‐昭和24)
政治家。兵庫に生まれ,東京専門学校(現,早稲田大学)行政科を卒業し,渡米してイェール大学に学び帰国後弁護士を開業する。1912年5月の総選挙に初当選して政界に入り,以後当選13回,立憲国民党,立憲同志会,憲政会,民政党に所属し,雄弁家として知られた。浜口雄幸内閣で内務政務次官となり,第2次若槻礼次郎内閣法制局長官を経て,斎藤実内閣ではふたたび内務政務次官を務めた。次官時代には選挙法問題に力を入れ,比例代表制の導入を強く主張している。

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大辞林 第三版の解説

さいとうたかお【斎藤隆夫】

1870~1949) 政治家。兵庫県生まれ。東京専門学校卒。エール大学に学ぶ。弁護士から政界に転じ、憲政会・民政党議員として、軍部に抵抗する議会活動を展開、1940年(昭和15)日中戦争処理に関し反軍演説を行い、議会から除名された。敗戦後も議会にあり、吉田・片山内閣の国務大臣。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

斎藤隆夫
さいとうたかお

[生]明治3(1870).8.18. 兵庫
[没]1949.10.7. 東京
政治家。東京専門学校卒業後,弁護士。 1912年から衆議院議員。立憲民政党に所属し,自由主義者として軍国主義的傾向を批判。 36年,二・二六事件直後の第 69特別議会における粛軍演説は有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

斎藤隆夫
さいとうたかお
(1870―1949)

大正・昭和期の政治家。明治3年8月18日、兵庫県出石(いずし)郡室埴(むろはに)村に生まれる。東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)卒業後弁護士となり、渡米してエール大学大学院で公法・政治学を学んだ。1912年(明治45)5月、郷里より国民党所属衆議院議員に初当選し、以後、立憲同志会、憲政会、立憲民政党に属した。1935年(昭和10)1月24日の陸軍パンフレット・軍事費偏重批判演説、翌年5月7日の二・二六事件に対する粛軍演説、1940年2月2日の日中戦争解決に関する反軍演説は著名で、最後の演説ではついに軍部を怒らせて、懲罰に付され、議員を除名された。第二次世界大戦後は、日本進歩党を結成し、さらに民主党、民主自由党に属し、この間、第一次吉田茂内閣と片山哲(かたやまてつ)内閣の国務大臣となった。政党人としては珍しく親分子分をもたず、硬骨な自由主義者で、戦時下の反軍演説はつねに民衆のひそかな支持を得た。昭和24年10月7日没。[佐藤能丸]
『川見禎一編『斎藤隆夫』(1955・斎藤隆夫先生顕彰会) ▽川見禎一編『斎藤隆夫政治論集』(1961・斎藤隆夫先生顕彰会) ▽伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上下(2009・中央公論新社) ▽松本健一著『評伝斎藤隆夫――孤高のパトリオット』(岩波現代文庫)』

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世界大百科事典内の斎藤隆夫の言及

【帝国議会】より

…以後,議会は政府の提出する巨額の軍事費や戦時立法を成立させるための協賛機関となり,近衛を擁立しようとする新党運動によって動揺し,あるいは軍部の意向によって態度を変更するなど,政党は主体性を失って分裂したり,党内対立を表面化させたりして混迷を続けた。とくに,40年米内光政内閣のときに民政党の斎藤隆夫が戦争政策を批判すると,各党は軍部強硬論に同調して斎藤の除名を要求し,除名反対論を圧殺したこと(反軍演説問題)などは,政党が行きついた袋小路を示すものであった。 この年に入って枢密院議長近衛文麿を担ごうとする新体制運動が活発化すると,各党はこの動きに合流するため,7月から8月にかけあいついで解党し,議会は無政党時代を迎え,ここに帝国議会は決定的な転機を迎えた。…

【反軍演説問題】より

…反軍とは軍部や軍事政策への反対,批判を指し,その意味では第70議会(1937年1月)の浜田国松の演説(いわゆる〈腹切り問答〉)なども含まれるが,一般には第75議会での斎藤隆夫の演説を指す場合が多い。1940年2月2日の衆議院本会議で民政党から代表質問に立った斎藤は,〈東亜新秩序を唱える近衛声明で“支那事変”が解決できるというのは,現実を無視し聖戦の美名にかくれて国民的犠牲を閑却するものではないか,近く現れんとしている汪兆銘政権に,中国の将来を担うだけの力があるとは思われない,政府は国民精神総動員に巨額の費用を投じているが,国民にはこの事変の目的すらわからない〉など対中国政策を全面的に批判した。…

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