大正・昭和期の政治家。明治3年8月18日、兵庫県出石(いずし)郡室埴(むろはに)村に生まれる。東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)卒業後弁護士となり、渡米してエール大学大学院で公法・政治学を学んだ。1912年(明治45)5月、郷里より国民党所属衆議院議員に初当選し、以後、立憲同志会、憲政会、立憲民政党に属した。1935年(昭和10)1月24日の陸軍パンフレット・軍事費偏重批判演説、翌年5月7日の二・二六事件に対する粛軍演説、1940年2月2日の日中戦争解決に関する反軍演説は著名で、最後の演説ではついに軍部を怒らせて、懲罰に付され、議員を除名された。第二次世界大戦後は、日本進歩党を結成し、さらに民主党、民主自由党に属し、この間、第一次吉田茂内閣と片山哲(かたやまてつ)内閣の国務大臣となった。政党人としては珍しく親分子分をもたず、硬骨な自由主義者で、戦時下の反軍演説はつねに民衆のひそかな支持を得た。昭和24年10月7日没。
[佐藤能丸]
『川見禎一編『斎藤隆夫』(1955・斎藤隆夫先生顕彰会)』▽『川見禎一編『斎藤隆夫政治論集』(1961・斎藤隆夫先生顕彰会)』▽『伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上下(2009・中央公論新社)』▽『松本健一著『評伝斎藤隆夫――孤高のパトリオット』(岩波現代文庫)』
政治家。兵庫に生まれ,東京専門学校(現,早稲田大学)行政科を卒業し,渡米してイェール大学に学び帰国後弁護士を開業する。1912年5月の総選挙に初当選して政界に入り,以後当選13回,立憲国民党,立憲同志会,憲政会,民政党に所属し,雄弁家として知られた。浜口雄幸内閣で内務政務次官となり,第2次若槻礼次郎内閣の法制局長官を経て,斎藤実内閣ではふたたび内務政務次官を務めた。次官時代には選挙法問題に力を入れ,比例代表制の導入を強く主張している。軍部の政治介入に反発し,二・二六事件直後の第69議会で行った軍部批判の演説は〈粛軍演説〉として知られる。さらに40年2月の第75議会では,東亜新秩序声明や汪兆銘政権樹立を軸とする〈支那事変〉処理政策を批判,反軍演説として衆議院から除名された(反軍演説問題)。しかし次の42年4月のいわゆる翼賛選挙では,非推薦にもかかわらず兵庫5区から最高点で当選,議席を回復。第2次大戦後は46年11月の日本進歩党結成に参加,翌年幹部のほとんどが公職追放されたため一時は進歩党を代表する立場に立ち,第1次吉田茂内閣には国務大臣として入閣。47年3月の日本民主党の結党にあたっては最高委員の一人となり,片山哲内閣でも国務大臣として入閣している。
執筆者:古屋 哲夫
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明治〜昭和期の政治家 衆院議員(民主自由党)。
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1870.8.18~1949.10.7
大正・昭和期の政党政治家。兵庫県出身。東京専門学校卒。弁護士から衆議院議員となり,13回当選。1936年(昭和11)2・26事件後の第69議会で軍の政治介入を批判(粛軍演説)。40年の第75議会で陸軍による汪兆銘(おうちょうめい)政権を中心とした日中戦争収拾策を論難し,議会から除名されたが(反軍演説問題),42年の翼賛選挙で非推薦ながら当選。第2次大戦後は日本進歩党の結成に参加。第1次吉田・片山両内閣で国務相となった。
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…以後,議会は政府の提出する巨額の軍事費や戦時立法を成立させるための協賛機関となり,近衛を擁立しようとする新党運動によって動揺し,あるいは軍部の意向によって態度を変更するなど,政党は主体性を失って分裂したり,党内対立を表面化させたりして混迷を続けた。とくに,40年米内光政内閣のときに民政党の斎藤隆夫が戦争政策を批判すると,各党は軍部強硬論に同調して斎藤の除名を要求し,除名反対論を圧殺したこと(反軍演説問題)などは,政党が行きついた袋小路を示すものであった。 この年に入って枢密院議長近衛文麿を担ごうとする新体制運動が活発化すると,各党はこの動きに合流するため,7月から8月にかけあいついで解党し,議会は無政党時代を迎え,ここに帝国議会は決定的な転機を迎えた。…
…反軍とは軍部や軍事政策への反対,批判を指し,その意味では第70議会(1937年1月)の浜田国松の演説(いわゆる〈腹切り問答〉)なども含まれるが,一般には第75議会での斎藤隆夫の演説を指す場合が多い。1940年2月2日の衆議院本会議で民政党から代表質問に立った斎藤は,〈東亜新秩序を唱える近衛声明で“支那事変”が解決できるというのは,現実を無視し聖戦の美名にかくれて国民的犠牲を閑却するものではないか,近く現れんとしている汪兆銘政権に,中国の将来を担うだけの力があるとは思われない,政府は国民精神総動員に巨額の費用を投じているが,国民にはこの事変の目的すらわからない〉など対中国政策を全面的に批判した。…
※「斎藤隆夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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