経済倫理(読み)けいざいりんり

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

経済倫理
けいざいりんり
economic ethics英語
morale conomiqueフランス語
Wirtschaftsethikドイツ語

資本主義は利潤の無限追求であり、その利潤が絶えず新しい資本となる無限の資本蓄積である。マックス・ウェーバーは、これは人間生活からみて不自然な姿であるから、これが行われるためには、本能的な人間の生活活動をこの方向に向けるだけの厳しい訓練が必要であると考えた。そしてその訓練をプロテスタンティズムとくにカルビニズムの倫理にみいだした。経済活動を必要悪とみた中世カトリックの考え方に対し、神の声である世俗の職業を不断に遂行することが神をたたえる道であるという職業意識と、職業に忠実であることによって得られる経済的成果(利潤)が自己の信仰の義(ただ)しさを証明し神の恩寵(おんちょう)の証(あかし)とする考え方、さらに、地上のものである財と美に心を奪われるのは神の定めた天職をおろそかにするものであるから、利潤を消費に向けず投資して天職を全うすべしという禁欲的合理主義がそれである。ここに、勤勉な労働と倹約貯蓄の徳目が宗教によって至善とされ、経済と倫理が結び付けられることになった。これは16~17世紀の宗教改革の時代のことであったが、長い宗教戦争に倦(う)んで宗教心の薄れた18世紀になると、J・ロック、D・ヒュームらの自然法思想に支えられ、A・スミスその他の古典学派の経済的自由主義の理論に裏打ちされて、個人の自由な経済活動が最大多数の最大幸福を生むという予定調和論になった。
 古典学派の学説は利己心を中心とした快楽主義の教義で、人間を利己心あるいは営利欲のみによって動機づけられた一面的な経済人(ホモ・エコノミクス)とみているという非難がある。それは、スミスのねらっているものを理解しない的はずれの非難である。スミスは人間社会の現実分析の結果、各自の生活が本能的に自己本位になっているという認識に出発しているが、ねらっているものは、その各自の活動のうちに絶えず働いている正常的関係であり全体的調和であった。人間を利己的とも利他的ともみているが、人間存在の全体を問題としているのではない。経済活動の場のルールの正常性が問題なのである。スポーツのときにはスポーツのルールを守って、人間の本能に従ったかってな動きを抑えなくてはスポーツは成り立たない。経済活動においても、経済のルールに従わず、他の人間的要素を介入させると経済活動を混乱に陥れるだけである。経済の世界にある限りは経済人でなくてはならない。スミスその他のねらったのはまさにそれであって、スポーツを愛好し、ビジネスと友情を厳しく区別するイギリス人タイプのものである。スポーツのルールにあたる正常関係が認識されれば、いかに処すべきかの判断ができるという自信のあるところに生まれたもので、それがまた自由主義の性格である。それは現在非難されている日本人のエコノミック・アニマル性とは異なるものである。
 19世紀は、勤勉と節約の経済倫理によって労働者は労働の成果の分け前の乏しさをがまんし、資本家は利潤を消費せず投資して、異常な資本蓄積を成就、ヨーロッパの世界制覇となった。しかし20世紀の二つの大戦を経て、この経済倫理とその成果に幻滅を感じ、新しきものを求めて暗中模索している。ブルジョア的経済倫理を捨てて社会主義の新しい秩序に移るか、資本主義の能率を頼りとしてそれを維持しつつ、経済価値を他の文化価値の下位に置いて福祉国家への道を進むかである。[山田長夫]
『M・ウェーバー著、梶山力・大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』全2冊(岩波文庫)』

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