絵や記号で暦象を記した暦。大小暦や南部盲暦(めくらごよみ)が代表であり,江戸時代の半ば以降に多く作られるようになった。大小暦は月の大小を種々の絵で奇抜に表現した暦で,貞享・元禄(1684-1704)のころから作られ,1765年(明和2)以降急激に流行した。文人や浮世絵師などが意匠をこらした大小暦を木版刷りにして年始の回礼に贈答する風も行われ,実用からしだいに趣味娯楽のための暦になった。南部盲暦は盲暦,座頭暦ともよばれ,文字を知らぬ人にも理解できるように作られた絵暦で,田山暦と盛岡暦の2種類がある。田山暦は旧南部藩二戸郡田山村で発行された絵暦で,正徳年間(1711-16)に版元の八幡家の祖である善八が創始したと伝承され,善八暦ともよばれて幕末まで作られていた。八幡家は田山一帯をカスミ場とする出羽三山系の天台修験の家であり,盲暦は盲経などとともに天台宗の民衆教化のために製作され農民に配られたと考えられている。田山暦は橘南谿の《東遊記》で紹介され世に知られたが,初期のものは手書きの部分が多く少部数が作られたにすぎない。1783年(天明3)の田山暦が現存最古で,有名なわりに現存するものは少ない。一方,盛岡暦は文化年中(1804-18)またはそれを若干さかのぼる時期に田山暦の影響を受けて作られた一枚刷りの暦で,最初から商業目的で大量に作られた。盗人が荷をかつぐ絵で入梅(荷奪い)を表現するなど判じ絵式になっている。現在盲暦といえばこの盛岡暦のことを指し,現在も作られている。
執筆者:飯島 吉晴
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
文字を用いず絵で解説してある暦。文字を解さない人たちのためにつくられた一枚摺(ず)りのもので、江戸時代には各地にこの種の絵暦があった。判じ絵で農耕・養蚕などに必要な暦日を示した本格的な絵入り暦は、旧南部藩領の岩手県地方にみられ、「南部めくら暦」という。座頭(ざとう)(盲人)暦ともよばれる。
たとえば賽(さい)の目で、それぞれの月を示し、それに十二支の動物を描いているのは、その月の朔日(ついたち)はなんの日ということをさしている。大の月は大刀、小の月は小刀で表しているほか、盗賊が荷を担いでいる図で「入梅(にゅうばい)」(荷奪い)を示していたり、鉢、重箱、矢を並べて「八十八夜」、罌粟(けし)に濁音符を加えて「夏至(げし)」と読ませているなど、判じ絵的な特色がある。この絵暦は、江戸時代天明(てんめい)(1781~1789)以前に始まったとされ、寛政(かんせい)(1789~1801)版の『東遊記(とうゆうき)』(橘南谿(たちばななんけい))に紹介されたのが最初の文献という。現在のものの原型は、文化(ぶんか)(1804~1818)初期にできた盛岡系で盛岡城下を中心に藩内に普及。明治期版行が中絶されたが、復刊されて以後も存続、県北、三陸地帯では実用暦に用いられ、民俗資料として貴重視される。
[斎藤良輔]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新