(1)中世 鎌倉幕府草創期に源頼朝が勢力下に入れた諸国に置いたもので,国衙在庁を指揮し,国内公領の収税事務を管掌した。1184年(元暦1)に上野国奉行として安達盛長の名がみえ,国役の執行や寺社の管領に当たっている。この時期に上野の軍事統率権をもつ守護は比企能員であったが,のちには盛長の子の景盛が国奉行と守護を兼ねており,いつしか守護職を包摂したことがわかる。幕府体制確立後も上野や上総には,国内の雑訴を扱う雑人(ぞうにん)奉行が幕府内におかれていたことがみえ,これが国奉行とも呼ばれているが,前の国奉行とは区別すべきであろう。なお建武政権においても雑訴決断所に各国の訴訟の文書整理に当たる国奉行を置いたことがみえ,また室町幕府でも諸国に段銭を課した際にその徴納に当たる国分奉行を定めている。
執筆者:福田 豊彦(2)近世 江戸時代初期に近畿地方などに置かれた幕府の職制。郡代(ぐんだい)ともいう。郡代は守護代の権限を郡ごとに分掌するもので,戦国期にも近畿や関東の後北条氏の分国などに存在した。国奉行はこの郡代の任務・権限を継承するものとして,小大名領,旗本領の私領と幕府御料(天領)が錯綜する近畿を中心とした11ヵ国(備中,但馬,大和,山城,摂津,河内,和泉,丹波,近江,伊勢,美濃)に置かれ,御料,私領に関係なく一国単位で広域的に行政を担当した。職務の内容は,国絵図,御前帳(郷帳)を作成・管理したことに象徴されるように,(a)地方(じかた)の管理,(b)国役の徴収,(c)幕府法令の触流(伝達)の三つに大別される。(a)には,幕府代官や小大名の農政を監察する任務(この任務は諸藩に置かれた郡代と共通している),新たに知行を与えられた領主に地方を割り渡す任務が含まれている。(b)は,百姓から国役として人夫を徴発し,築城や河川工事などの普請に従事させ,また大工頭による職人からの国役徴発を援助する任務であった。
以上を要するに国奉行は,生野銀山の但馬,鉄の産地の備中,舟運の要地伊勢(伊勢国奉行の後身山田奉行の任務の一つに鳥羽港の管掌があった)などに置かれたことからもわかるように,交通・分業を掌握し,普請や戦争に必要な要員や物資を動員するのが主たる任務であったといえよう。戦争がなくなり,また大規模な普請がなくなって国役が代銀納化され,幕府の日常的需要が賃雇や日用,商取引によって充足されるようになった17世紀後半になると,この制度は京都所司代,大坂城代を中心とした裁判を中核とする広域行政機構に解消し,国奉行の呼称も消滅した。関東にも初期には関東総奉行がおかれ,関東郡代伊奈氏とともに国奉行に類似した国役徴発に従事したと考えられるが,実態は明らかでない。
執筆者:高木 昭作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。 幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。…
…関ヶ原の戦に勝利して美濃を掌握した徳川家康は,一方では中山道沿いの加納に女婿奥平氏を封ずるなど,西国の押えを強く意図した大名配置を行い,その主軸に尾張藩をすえた。他方では岐阜城を廃し,美濃の幕領支配と,当国の役人足徴収や木材採運河川の管理などを行う代官頭,のちの美濃国奉行大久保長安の役所を岐阜町においた。しかし19年(元和5)に岐阜町が尾張藩領に編入され,国奉行岡田氏の役所が可児郡に移されるに及んで,岐阜町は尾張藩領の一商工業都市に変貌した。…
※「国奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新