太平洋戦争下の挙国一致的政治団体。いわゆる翼賛選挙直後の1942年(昭和17)5月20日、東条英機(ひでき)首相の提唱により、刑事訴追者8名を除く全衆議院議員、皇族を除く貴族院議員、大政翼賛会関係者、言論界代表、財界人などを網羅し、すべての会派を解散して結成され、総裁には阿部信行(のぶゆき)(のち小林躋造(せいぞう))が就任した。綱領には「挙国的政治力の結集」「翼賛議会の確立」などを掲げ、東条内閣が他の政治結社をすべて解散させたため、事実上の一国一党となり、東条内閣の独裁的基盤づくりに協力した。しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、東条内閣退陣とともに結束力が弱まり、45年2月には脱会者が相次ぎ、3月30日解散して大日本政治会へ発展的に解消した。
[木坂順一郎]
『大木操著『大木日記』(1969・朝日新聞社)』▽『中谷武世著『戦時議会史』(1974・民族と政治社)』▽『升味準之輔著『日本政党史論 第七巻』(1980・東京大学出版会)』
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太平洋戦争期の政事結社(政治活動をする団体)。1942年(昭和17)4月の翼賛選挙後,東条首相の要請で政財界・言論界の有力者による翼賛政治結集準備委員会が結成され,5月20日に設立された。政府が認めた唯一の政事結社で,事実上の一国一党体制が成立,議会は政府の協力機関化した。総裁は44年8月まで阿部信行,以後は小林躋造(せいぞう)。ほぼ全員の衆議院議員と貴族院議員,官僚OB,財界人の一部が参加。運営の中心は総務会で,総務会長(前田米蔵,のち金光庸夫(つねお))が衆議院議員であることから,運営の主導権は衆議院勢力にあった。45年3月30日大日本政治会が結成されるのにともない解散。
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【戦時体制と社会状況】
[天皇制ファシズムの確立と崩壊]
すでに1940年10月12日に大政翼賛会が結成され,天皇制ファシズムが体制として成立していたが,東条内閣は太平洋戦争開戦後に言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年12月19日公布)や戦時刑事特別法(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め,緒戦の勝利を利用して42年4月30日に翼賛選挙を実施した。5月20日貴衆両院議員の大半を網羅した翼賛政治会が結成され,いわゆる翼賛議会体制が確立した(翼賛体制)。次いで6月23日,政府は大日本産業報国会(産業報国運動),大日本婦人会,大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合し,8月14日には部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に,隣組長を世話人にすることを決定した。…
…翌42年には1年間延期されていた総選挙が行われることになり,翼賛政治体制協議会は推薦候補者を決め,4月の選挙では381名の当選者を出した。その結果をふまえて5月には貴衆両院議員,翼賛会,財界などの代表を網羅する翼賛政治会が結成されて東条英機首相による独裁的立場がますます強化され,議会は政府提出の予算案や法律を短期間に成立させる戦争協力機関となった。44年戦局の悪化とともに東条内閣が退陣し,代わった小磯国昭内閣には翼賛政治会から3名の旧政党の長老が入閣した。…
…そこで陸軍の指導下に大政翼賛運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団(翼壮)が結成された。実践力を誇る翼壮は,農村を中心に下からの急進ファシズム的な運動を展開し,翼賛会,翼賛政治会,市町村役場とのあいだで紛争を起こした。放置すれば翼賛体制に亀裂が入るため,43年末東条英機内閣は翼壮に対して統制を加え,翼壮の活動力は衰えた。…
※「翼賛政治会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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