脇田村
わきたむら
[現在地名]若宮町脇田
乙野村の南、犬鳴川の上流域に位置し、村の西部は犬鳴川沿いの狭い渓谷、東部は平地となっている。東は湯原村、南西は表粕屋郡久原村(現久山町)、西は犬鳴谷村、南は縁山畑村。「続風土記拾遺」によれば村域は広く、集落は本村および古賀・白木・天入寺・裏山・春田・安河内・芳賀・平原・勝元・頓々・縁山・向ヶ原などに散在していた。「続風土記」は枝郷として安河内村・古賀村・縁山畑村をあげ、うち縁山畑村はのちに分村した。また犬鳴谷村も古くは当村の枝郷であったが、安永五年(一七七六)に分村したという(地理全誌)。
脇田村
わきだむら
[現在地名]平田町蛇池
須脇村の南東にあり、北東は野市場村。暦応四年(一三四一)八月七日の摂津親秀譲状并安堵外題(美吉文書)に「脇田郷一色・三井・大幡・簗瀬・大嶋」とみえ、幕府評定衆の親秀は惣領能直に同郷などを譲与し、一二日に足利直義から安堵をうけている。のち同郷は将軍足利義満より守護土岐満貞に与えられ(応永二九年三月二八日「大徳寺如意庵文書目録」大徳寺文書)、明徳二年(一三九一)四月二七日満貞より京都紫野大徳寺の塔頭如意庵に寄進された(「土岐満貞寄進状」同文書)。翌年九月一一日には安八郡奉行衆の鞍置景澄らが同郷を大徳寺雑掌に引渡すことを命じている(「鞍置景澄等連署奉書案」同文書)。
脇田村
わきたむら
[現在地名]川越市脇田・脇田町・脇田本町・脇田新町・広栄町・新富町・旭町・東田町など
松郷のうちの鉄炮町の南続きに位置するが、その境界は錯綜している。検地は寛文五年(一六六五)に実施された(風土記稿)。同四年の河越領郷村高帳に村名がみえ、高三三一石余・反別畑八八町九反余、開発分高五一石余(反別畑一三町七反余)、幕末まで川越藩領。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高三一四石余、ほか高一五五石余。
脇田村
わきだむら
[現在地名]伊万里市
脇田町・
松島町 北部の城古岳(四〇四メートル)から南部は伊万里川の低地までを占め、脇田川が南流し松島搦より西へ曲がり伊万里湾へ注ぐ。
村内に岩立・瓶屋・長恩寺・浜田・陣内などの地名がある。岩立は正保絵図などに岩立村としてその名がある。
寛元四年(一二四六)八月一三日付のさいねん譲状案(伊万里文書)に「しかれハ、みなもとのとんるは、さいねんかしなんとあるによりて、ゆすりわたすところ、しちなり、たたし、いまりのうらにをきてハ、わきたのうらに、たかまつのふなつニ」とあり、また、文永六年(一二六九)七月二〇日付の源留譲状案(伊万里文書)にも「伊万里のうらのわきたより」と脇田の地名がみえる。
脇田村
わいたむら
[現在地名]岡山市賞田
湯迫村の西、龍ノ口山西方南麓に集落がある。寛永八年(一六三一)の検地帳(岡山市立中央図書館蔵)によれば田高七五石余(三町八反余)・畑高二九石余(一町九反余)、屋敷筆数一四、名寄人数二二。「備前記」によると山寄りの集落で、北部に高島宮・山王宮がある。「備陽記」によると田畑五町八反余、家数二五(寺とも)・人数一五一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一六一石余、蔵入と家臣津田源太兵衛の給地。田高七七石余・三町九反余、畑高二七石余・一町八反、家数一五・人数八三、牛五。
脇田村
わきだむら
[現在地名]新庄町大字脇田
笛吹村東方、高野街道西部の村。文禄四年(一五九五)の検地帳には「忍海郡脇田上ノ村」とあり、検地奉行は新城駿河守(新庄直頼)で、馬場村・吉兵衛分・梅室少二郎分・小林分などに分れていた。
慶長郷帳には「稲田村」とみえ、福島兵部領。村高は一一一五・八四三石。元和郷帳では「わき田村」と出る。
脇田村
わきだむら
[現在地名]西淡町松帆脇田
高屋村に挟まれ、三原川下流域の南岸低地帯に立地し、水害が多かった。近世初めまで古式入浜塩田があったと伝える。当村の産土神である松帆高屋の八幡神社(通称塩竈八幡神社)の天文一三年(一五四四)銘の棟札に「此度再建塩浜高屋脇田三ケ□」と記されていた(兵庫県神社誌)。正保国絵図に脇田村とみえ、高四二一石余。天保郷帳では高四二八石余。反別戸数取調書では反別四八町九反余、高五九六石余。
脇田村
わきだむら
[現在地名]吉川町前田
山崎村の西に位置する。慶長国絵図に「ワきた村」とみえる。正保郷帳では宮村・吉田村とともに御前田村一村で高付される。元禄郷帳では三村に分れており、「古ハ御前田村」と注記され、高三〇七石余。村高は幕末まで変わらない。分村頃と思われる延宝七年(一六七九)幕府領となり、正徳二年(一七一二)下野壬生藩領となって、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、享保二年「徳川吉宗領知朱印状」大島家文書、旧高旧領取調帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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