日本大百科全書(ニッポニカ) 「自由州」の意味・わかりやすい解説
自由州(南アフリカ共和国)
じゆうしゅう
Free State
南アフリカ共和国の中部にある州。旧オレンジ自由国州。1993年の暫定憲法の成立により、従来の4州は9州に再編され、それとともにオレンジ自由国州から自由州に改名された。標高1300~1700メートルの内陸台地上にあり、東部州境をドラケンスベルク山脈、南部州境をカレドン川、オレンジ川、北西部州境をバール川が流れている。面積12万9480平方キロメートル。人口278万2000(1996)で、その内訳は白人37万4000、カラード(混血有色人)7万3000、インド人3000、黒人233万3000である。白人はアフリカーナー(オランダ系)が多く、黒人の大半はソト人であり、ほかに少数のツワナ人、ズールー人、コーサ人が居住している。都市化率は54.1%。州都はブルームフォンテーンで、南アフリカ共和国最高裁判所の所在地。その他の主要都市として、東部のベスレヘム、北部のクローンスタット、ウェルコム、オーデンダールスルスがある。主要産業は農業で、南部のカレドン川沿いの平野部では小麦、カラスムギ、果樹の栽培が盛んなほか、北部のハイルブロン、フランクフォート付近は南アフリカ共和国有数のトウモロコシ生産地帯で、同国のトウモロコシ生産の3分の1以上を産出している。ウシ、ヒツジの牧畜も盛んである。鉱業に関しては、1952年オーデンダールスルス近くのウェルコム、セント・ヘレナで、新たな金の富鉱が発見された。そのほか、南部のヤーゲルスフォンテーンにダイヤモンド鉱山、北部州境近くのコルネリア、クライデスデイルに豊富な炭田がある。工業は農産物加工を除いてみるべきものがなく、南アフリカ共和国旧4州のなかでも工業発達はもっとも遅れている。南アGDP(国内総生産)に占める自由州の割合は7.1%と低く、主要産業部門は鉱業、製造業、商業、農業の順となっている。1人当り所得は8647ラント(1994)と全国平均9461ラントを下回っている。
[林 晃史]
歴史
旧オレンジ自由国州は19世紀なかばブーア人(アフリカーナーの先祖)が建設したオレンジ自由国を母胎とする。1830年代、イギリスの支配を嫌い内陸に大移動したブーア人の一派は、オレンジ川を渡りタバ・エンチューのモロカ人の首長と友好関係を結び、その北のウィンバーグに定着した。しかしこの地域は東側にバスト人、西側にグリクァ人がおり、彼らはイギリスの保護を受けてブーア人の定着を拒もうとした。その結果ウィンバーグは、1848年イギリス軍に占領された。しかし、当時、小イギリス主義を主張するイギリス本国政府は、その併合を喜ばず、54年2月のブルームフォンテーン協定によってブーア人の国オレンジ自由国が成立した。自由国はアメリカ合衆国の憲法を手本として三権分立主義の共和制をとり、行政権は大統領、立法権は一院制の国民審議会(フォルクスラート)に与えられ、首都はブルームフォンテーンに置かれた。ブーア戦争(1899~1902)時には隣国トランスバールと同盟を結びイギリス軍と戦ったが、1900年3月敗れ、イギリスに併合されてオレンジ川植民地となった。その後、1910年の南アフリカ連邦成立とともにその一州に組み入れられた。1993年自由州と改名。
[林 晃史]