江戸中期の臨済宗の僧。諱(いみな)は慧鶴(えかく),号は鵠林(こうりん)。駿河国浮島(現,静岡県沼津市)に生まれ,俗姓は杉原氏。15歳のとき,郷里の松蔭寺の単嶺について得度,慧鶴と名づけられた。ついで沼津大聖寺の息道に随侍,20歳のとき,美濃国(岐阜県)大垣の瑞雲寺に赴き,馬翁の厳しい指導を受けた。馬翁のもとで《禅関策進》をひもとき,奮起して本格的な求法を開始した。ついで伊予国(愛媛県)松山の正宗(しようしゆう)寺に至り,逸禅の講じる《仏祖三経》を聞いて深く感銘し,以後,《禅関策進》と《仏祖三経》をつねに座右に置いて師友とした。1708年(宝永5)24歳のとき,越後国(新潟県)高田の英巌寺に赴き,性徹の苛烈な鉗鎚(けんつい)に耐えて猛烈に工夫し,遠寺の鐘声を聞いて豁然(かつぜん)と大悟,所解を性徹に呈したが許されなかった。そこで信濃国(長野県)飯山の正受(しようじゆ)庵に道鏡慧端(えたん)(正受老人)を訪ね,機鋒峻烈な慧端の膝下で弁道に励んだ。ある日托鉢の途次,一老婆に竹ぼうきで打たれて忽然と悟境に入り,ついに慧端の印可を得たといわれる。白隠はその後も各地の諸師に歴参し,1716年(享保1)32歳で松蔭寺に帰住した。18年京都妙心寺の首座(しゆそ)となったが,大禅刹への出世を好まず,松蔭寺を本拠として終生首座の僧階にとどまり,《大慧書(だいえしよ)》《禅門宝訓》《臨済録》《五家正宗賛》《碧巌録》などを盛んに提唱講演した。また請われるままに各国諸寺を巡錫(じゆんしやく)し,晩年に至るまで禅の布教に尽力したが,その足跡は東海,東山,畿内,山陽に及ぶ。1769年(明和6)神機独妙禅師,1884年正宗国師と勅諡(ちよくし)された。
白隠は臨済禅の正統な後継者としての自覚に立ち,厳しい禅風を挙揚(こよう)する一方,平易な言葉と比喩を用いて禅の民衆化に努めた。したがって,多くの著述の中にも,《槐安国語(かいあんこくご)》《荆叢毒蘂(けいそうどくずい)》《息耕録開筵普説》のような本格的な漢文体の語録と,《夜船閑話》《壁生草(いつまでぐさ)》《藪柑子(やぶこうじ)》《遠羅天釜(おらてがま)》《おたふく女郎粉引歌》《大道ちょぼくれ》などの平易な仮名法語がある。彼の会下(えか)には雲衲(うんのう)が群集し,東嶺円慈,遂翁(すいおう)元盧,峨山慈棹(じとう),葦津慧隆(いしんえりゆう)など多数の禅傑を輩出,その門派鵠林派は大いに栄え,やがて臨済宗の法流を独占するにいたった。
執筆者:藤岡 大拙 白隠はまた書画を得意とし,禅宗祖師像,出山釈迦像や観音像から民間信仰に基づく七福神などの主題,あるいは市井の人物や動物を主人公にした戯画を描いた。峻烈で気魄にみちた祖師や釈迦像,教訓や寓意を含んだおおらかな戯画は,過酷な修業や民衆の教化という禅僧としての自己体験と実践を背景にもちながら,しろうと絵の稚拙さと泥臭さに徹した独特の作風を60歳代以後晩年に生み出した。自由で放胆な作画姿勢が,禅画のジャンルだけでなく,既成の美意識を解き放つ意味で,絵画の新たな可能性を模索していた池大雅(いけのたいが)ら当時の京都画壇の画家たちにも大きな示唆となったことが推測される。
執筆者:鈴木 廣之
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江戸中期の禅僧。日本臨済禅中興の祖といわれる。法名慧鶴(えかく)。鵠林(こうりん)とも号した。貞享(ていきょう)2年12月25日、駿河(するが)国駿東(すんとう)郡浮島原(静岡県沼津市)の長沢家に生まれる。幼名岩次郎(いわじろう)。15歳のときに原の松陰寺単嶺(たんれい)について得度、ついで沼津・大聖(だいしょう)寺の息道(そくどう)に、美濃(みの)(岐阜県)瑞雲(ずいうん)寺の馬翁(ばおう)に、同霊松(れいしょう)院の万休(ばんきゅう)に、同東光寺の大巧(たいこう)に、転じて若狭(わかさ)(福井県)・常高寺の万里(ばんり)に、伊予(愛媛県)松山の正宗寺の逸禅(いつぜん)らに侍し、23歳のとき行脚(あんぎゃ)の途次に馬翁の病重しと伝え聞いて親しく病床に仕え、その病癒えて駿河に帰った。翌年、越後(えちご)(新潟県)高田・英巌(えいがん)寺の性徹(しょうてつ)に参じ、遠寺の鐘声を聴いて豁然(かつぜん)として大悟(たいご)し、信州(長野県)飯山(いいやま)・正受庵(しょうじゅあん)の正受老人道鏡慧端(どうきょうえたん)(1642―1721)に参じて徹見し、ついにその法を嗣(つ)いだ。さらに悟後の修行を積み、洛東(らくとう)・白河の白幽(はくゆう)(?―1709)に謁(えつ)して内観の秘法を練る。のちにこの秘法・養生法を詳しく記したものに『夜船閑話(やせんかんわ)』がある。泉州(大阪府)蔭涼(おんりょう)寺に、あるいは美濃の巌滝(いわたき)山にあって刻苦を重ね、32歳の11月、松陰寺に帰り、この年を契機として請ぜられて禅録を各地に講じ、その門に僧俗の帰依(きえ)するものおびただしかった。『碧巌録(へきがんろく)』『臨済録』『虚堂録(きどうろく)』『大慧書(だいえしょ)』『大慧武庫(だいえぶこ)』『四部録』および『寒山詩』などを提唱講義し、その博学は尽きるものがなかった。講録に『槐安国語(かいあんこくご)』『息耕録開筵普説(そっこうろくかいえんふせつ)』『語録』『遠羅天釜(おらてがま)』等の名著がある。遂翁(すいおう)(1717―1790)、東嶺(とうれい)(1721―1792)、提州(ていじゅう)、斯経(しきょう)(1722―1787)、太霊(たいれい)(1724―1807)、峨山(がさん)(1727―1797)らの多くの逸材を門下に打ち出し、その法系は盛大を極めた。また詩文、書画をも多くなした。晩年は開創した龍沢寺と松陰寺との間を往還したが、明和(めいわ)5年12月11日84歳で松陰寺に寂した。神機独妙(しんきどくみょう)禅師、正宗(しょうしゅう)国師と勅諡(ちょくし)される。
[古田紹欽 2017年9月19日]
『『白隠和尚全集』全8巻(1934~1935・竜吟社)』▽『古田紹欽著『白隠――禅とその芸術』(1962・二玄社/新版・1978・木耳社/再刊・2015・吉川弘文館)』▽『鎌田茂雄著『日本の禅語録 第19巻 白隠』(1977・講談社)』
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… 仏教美術の分野では専門仏師による作品が画一化されていったのに対し,円空の鉈彫りの衣鉢をついだ木喰五行明満の木彫に宗教的情熱に支えられたすぐれた表現が見られる。白隠,仙厓が大衆教化のために描いた禅画の独自なスタイルは,近年高く評価されている。白隠,慈雲,良寛らの書は,その脱俗の風格において,貫名海屋,市河米庵ら儒者系書家の唐様より高く評価されている。…
…姿かたちのない観念の世界を目にみえるものにするのであるから,表現手段としては比喩的,あるいは象徴的なものにならざるをえない。たとえば白隠禅師の《円相》のようなものが,禅画と呼ばれるのにもっともふさわしい作品であろう。したがって禅画とは,絵画表現における禅的なものといったほうがより適切かもしれない。…
…近世前期も豊臣・徳川両家の諸大名が多く当寺の禅に傾倒し,伽藍造営や諸塔頭(たつちゆう)の造営が続き,幕府も寺領491石余を寄せ,全盛期を迎えた。宗勢の伸張だけでなく,開山慧玄の禅風をついでその伝法と修業が重視され,近世初期に傑僧愚堂東寔(ぐどうとうしよく)(1579‐1661)が現れ,ついで江戸中期に寺僧白隠慧鶴(はくいんえかく)が妙心寺禅に新境地を開き,いわゆる白隠禅を確立した。この白隠門派の禅がやがて妙心寺の禅を席巻し,ついで南禅・相国など五山派の大寺にまで広まり,江戸後期になると白隠禅は日本臨済界の主流となり,それが今日に続いている。…
…室町幕府の衰退につれて五山勢力が衰微すると,代わって大灯派が台頭した。特に宗峰の法嗣(はつす)関山慧玄(かんざんえげん)の妙心寺派は,戦国時代から江戸時代にかけてしだいに教勢を強めたが,その法系から白隠慧鶴(はくいんえかく)が出るにおよんで,臨済宗の主流となった。白隠は峻烈な公案禅の挙揚と,卓越した指導力によって林(こうりん)派と呼ばれる大門派を形成し,日本の臨済中興の祖と仰がれ,以後,臨済僧の法系はことごとく白隠の流れをくむことになった。…
※「白隠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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