芝生村(読み)しぼうむら

日本歴史地名大系 「芝生村」の解説

芝生村
しぼうむら

[現在地名]西区浅間せんげん町一―五丁目・浅間台せんげんだい南浅間みなみせんげん

東南にかけて入海に臨み、南は帷子かたびら川を隔て久良岐くらき戸部とべ村・尾張屋おわりや新田、岩間いわま町、西は帷子町(現保土ヶ谷区)、北から東は青木あおき町に接する。西から北にかけて大久保おおくぼ山・薬師堂やくしどう山・袖摺そですり山などの小山が連なる。北東から南西に東海道が通り、道沿いに町家が連なる。時宗血脈相続之次第(藤沢市清浄光寺蔵)に、遊行五代安国が上人位を得て正中二年(一三二五)に「武州芝宇宿」で最初の賦算を行ったとある。

天保一四年(一八四三)村明細帳によれば高一五七石余、田一四町七反、畑一四町九反余。うち高六石余、下々田・見付田一町五反余は宝暦一一年(一七六一)に、高一五石余、見付田五町余は安永九年(一七八〇)にそれぞれ高入されたものである。用水は帷子川上流の川島かわしま(現保土ヶ谷区)地内に堰を設け、和田わだ村・帷子町(現保土ヶ谷区)との組合で水を引いた。田は早稲を少し、おもに中稲・晩稲を作り、畑作は大麦・小麦・粟・稗など、ほかに前栽物として瓜・茄子・大根を作った。肥料は干鰯・〆粕・下肥・藻草・刈草・下水を用いた。余業では天保九年の村明細帳に米穀・炭・槙・酒・醤油ほかの商売、薪木刈・藁細工、また浅蜊・蛤取、藻刈、女は糸取・賃機・縫物・洗濯などをあげており、神奈川宿(現神奈川区)保土ほど宿(現保土ヶ谷区)の間の街道村で、また帷子川河岸に面し、上流村々で産出する薪炭の集荷地・積出地、年貢米の津出しの地としての特色を反映させている。

芝生村
しぼうむら

[現在地名]三野町芝生

東流する吉野川北岸に位置し、西端部を河内谷こうちだに川が南流する。東は勢力せいりき村、西は太刀野たちの村、南の吉野川対岸は中庄なかしよう村・毛田けた(現三加茂町)。吉野川には川湊・渡場があった。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「志ぼう」とみえる。正保国絵図では芝生村として、高三八九石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一〇六石余・畠方二八二石余、旱損・芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では美馬みま郡とされ、蔵入高六〇石。同年の富田藩領地方帳には富田藩の家臣に与えられた分として高一一石余、物成四石余、請麦秋納分四ツ成、内麦七斗余とある。

芝生村
しぼうむら

[現在地名]小松島市芝生町・横須町よこすちよう

日開野ひがいの村の南に位置し、芝生川が東流する。地内を土佐街道が通る。近世は勝浦かつうら郡のうち。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「芝生」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「志ほう村」と記される。正保国絵図では「柴生村」として高四〇八石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方三七六石余・畠方三一石余、芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高八石余。この頃までの新開地は寛永一六年に新田高三五〇石余、同一八年に同高一八一石余、慶安四年(一六五一)に改出高一六〇石余であり、享保一一年(一七二六)に新田高二一石余、同一七年に同高一三石余があったという(天保五年「阿波国淡路国内郷村高帳」蜂須賀家文書)

芝生村
しぼうむら

[現在地名]高槻市芝生町一―四丁目・津之江つのえ町三丁目・唐崎北からさききた一丁目・同三丁目

津之江村の南にあり、あくた川下流右岸に位置する。文禄三年(一五九四)一〇月の芥川郡東天川村御検地帳写(森田家文書)の名請人肩書などには「しぼう」または「しはう」とある。現在は「しぼ」と発音される。津之江村の枝郷とする伝承がある(大阪府全志)。古代条里制の遺称とされる小字に九ノ坪・十四・十五がある。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「芝生村」とみえ高六七一石余、元和初年の摂津一国高御改帳では六七〇石余。領主の変遷は高槻村に同じ。

芝生村
しぼうむら

[現在地名]大宇陀町大字芝生

馬取柿まとりがき村・嬉川原うれしがわら村中間の丘陵地帯に立地する。慶長郷帳には「柴尾村」、元和郷帳には「かしおう村」、寛永郷帳では「柴尾村」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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